紐の先のくりす

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   いい事なんか一つもない。  一個も笑えない。  半年前に始めた家庭教師のバイトは、先週、急に派遣元が倒産したと一方的な通知が来た。まだ二月(ふたつき)分しか給料を貰ってないのに。    ある日帰ったら、半泣きの母親から「変なとこからお金借りてしもた」と電話番号入りのポケットティッシュを渡された。  二階の林のおっちゃんに頭を下げ、借りた十万で直ぐに返済した。丁寧な電話対応が逆に怖かった。震えてお腹がムズムズした。  昨日できたばかりの借金は既に二万円も増えていた。    五十代で()んだ父は、早期退職した後、金になる仕事に就けず、よく分からない商品の営業をしている。  携帯代は自腹なので、今月の通話料が五万を超えた事を母がやんわり諭したら、逆ギレした。母は台所で直立のまま、タコ殴りされた。  殴られてる時より、見てる時の方がキツかった。  地下街にある『ヨーロッパ』という、あんまりヨーロピアンでない多国籍な喫茶で相方が来るのを待つ。  三年間やってきた『お笑い』は今日で終わり。それを伝えなければ。  撤退の決断は早い方がいい。  地下街の通路と店の境界に並べられた、フェイクグリーンの鉢の隙間から、生成(きな)りのコンバースが見えた。 「すまん、電車遅れてた」  五分遅刻。  彼の遅れた時の常套句であるが、僕は電車が少し遅れた事を遅刻の理由に上げる人を、寧ろ信用しない。  だが、些事に目くじらを立てる自分の器の小ささは、今の僕にマイナスに働く。  気にしていない素振りをシラこくアピールする。
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