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第1話 真白き夜更け(1)
夏の虫たちの囁きが、夜闇を彩る。落ち着いた澄んだ音色が、鮮やかに広がっていく。
夜半特有の涼やかな南風が、レースのカーテンをふわりと揺らした。清冽な月明かりが窓から入り込み、ルイフォンの眠るベッドへと、まっすぐに降りてくる。
真白き光に誘われて、彼は薄目を開けた。
覚醒と同時に、腕の中のぬくもりを確認する。彼の肩口に、彼女の柔らかな頬。規則正しい寝息が胸元をくすぐり、彼は安堵する。
やっと取り戻した、最愛のメイシア。
彼女は、彼の服の端を固く握りしめたまま、甘えるように彼に体を預けていた。凛と輝く黒曜石の瞳は今は閉ざされ、緩やかな弧を描く睫毛の下に隠されている。その寝顔は無邪気で、無防備だ。
さらさらと流れる黒絹の髪を指先に絡め、くしゃりと撫でたい。ルイフォンは、その衝動を必死に抑える。
長かった軟禁生活から、ようやく解放されたのだ。安らかな眠りの邪魔をしたら、可哀想だろう。それより今は、その身を委ねてくれる愛しい彼女の寝姿を、心ゆくまで堪能しよう……。
約半日前となる昨日の昼、〈蝿〉の死によって、彼との諍いの日々に幕が下りた。
一行は、帰路の途中で草薙家に寄り、タオロンとファンルゥを送り出した。これからタオロンは、レイウェンの警備会社に住み込みで働くことになる。
待ち構えていたシャンリーやクーティエに熱烈な歓迎を受けていたから、小さなファンルゥも、きっとすぐに馴染むことだろう。闇に捕らわれ続けていたこの父娘も、これでようやく光の中を歩ける。本当によかったと思う。
屋敷に到着すると、料理長がご馳走の用意をして待っていた。イーレオやチャオラウも揃い、久しぶりに――本当に久しぶりに、皆で食卓を囲んだ。
料理の出来映えについて伺いに来た料理長に、リュイセンがいきなり席を立って土下座するという一幕もあった。彼が裏切り、メイシアを連れ去ったあの日、料理長の心づくしの晩餐を台無しにしたからだという。そんな彼を、料理長は笑って許してくれた。
食事を楽しんだあとは、『各人ゆっくりと休むように』とイーレオが言い渡し、解散となった。先にエルファンが電話連絡を入れていたこともあり、詳しい報告の会議は明日の午後とされたのだ。
リュイセンは、屋敷のあちこちへと挨拶に行った。彼の裏切り行為についての真相を明かすことはできないが、ケジメは必要だということだ。
ミンウェイは、〈蝿〉――『彼』と『彼女』の遺体が埋葬するまでの間に傷まないよう、処置を施すと言っていた。大掛かりな葬儀を行うことはないが、日を改めて弔う手はずになっている。
ちゃっかりというか、当然の権利というか、共に食卓についていたシュアンは、その足でメイシアの異母弟ハオリュウのもとへ向かった。ことの顛末について、説明してきてくれるそうだ。
そして――。
ルイフォンとメイシアは、『ライシェン』を屋敷の地下にいる〈ベロ〉に預けた。
〈神の御子〉の姿をした硝子ケースの赤子など、万が一にも屋敷の者たちに見られるわけにはいかない。また、よく分からないものであるからには、常に監視しておいたほうがよいだろうと考えたためだ。
「〈ベロ〉なら、不眠不休で『ライシェン』を見守れるだろ?」
〔ちょっとぉ、なんで私が、子守りしなきゃいけないのよ? だいたい私は、人の世には関わらない決まりよ!〕
気安く頼んだルイフォンに、〈ベロ〉は渋面を作るように光の糸を震わせた。
「お前が適任なんだから、そこをなんとか頼むよ。それに〈七つの大罪〉の技術でできた『ライシェン』は、人の世のものではないだろ?」
そう押し切って、〈ベロ〉のいる小部屋に、強引に『ライシェン』を置いてきたのだ。
そのあと……。
ちょっと仮眠を取ろうと、メイシアと共に横になった途端、ふたりとも泥のように眠ってしまったのだ。昨日は、ほぼ徹夜であったので、それも当然だったのかもしれない。
もうすっかり夜中だな。
高く上った、真円に近い月を見上げ、ルイフォンは思う。
晩御飯の時間はとっくに過ぎているだろう。いつもの通りなら、気を利かせた料理長が、部屋の外に夜食を置いてくれたはずだ。手間を掛けて申し訳ないが、あとで、ありがたくメイシアといただこう。
そんなことを考えていると、不意にメイシアの視線を感じた。
「ごめん。起こしちゃったか」
口では謝りながらも、彼女と言葉を交わせるのが嬉しくて、ルイフォンの顔は自然とほころぶ。しかし、ぱっちりと開かれた黒曜石の瞳が潤んでいることに気づき、彼は「どうした?」と顔色を変えた。
「ルイフォン……」
彼の名を呼びながら、彼女は彼の胸板に頬を寄せる。細い指先が彼の脇腹に回され、全身で彼の存在を確かめるかのように抱きついてきた。
「夢を見ていたの」
ぴたりと触れ合った体から、彼女の鼓動の速さが伝わってきた。
囚われの生活による心労から、悪夢を見たのだろう。それ自体はよいことではないが、夢でよかったと、ルイフォンは安堵する。
気にすることはないと笑いかけ、黒絹の髪をくしゃりとしようとしたとき、メイシアが再び口を開いた。
「でも、それは夢じゃなくて、セレイエさんの記憶なんだと思う。いろんなことを、とりとめもなく、たくさん……、セレイエさんの目で、セレイエさんの心で、見ていたの」
「!」
ルイフォンの心臓が跳ねた。
今まで、メイシアの身柄を取り戻すことが最優先で、彼女に刻まれたセレイエの記憶について考える余裕がなかった。『私が知りたいと思わなければ、セレイエさんの記憶は私の邪魔をしないから大丈夫』と、メイシアが言っていたために安心していたということもある。
しかし、やはり悪影響はあったのだ。ふとしたとき、おそらくは眠っているときのように、メイシアの自我が弱まっているとき、彼女はセレイエの辛酸を我がことのように受け止めてしまうようだ。
「糞っ……」
どうしたらよいのか分からず、ルイフォンは悪態をつく。
「ルイフォン」
硬い声で呟き、メイシアは顔を上げた。長い黒髪の先が、名残惜しげに彼の体を撫でていき、途中で、窓から入り込んだ風に舞い上げられる。
カーテンがなびき、白い月光が部屋に入り込んだ。照らし出された花の顔に、ルイフォンは息を呑む。
メイシアのまとう雰囲気が変わっていた。
その瞳が光るのは、辛い感情から生まれた涙の反射のはずなのに、まるで彼女の芯の強さが灯ったかのような凛と鋭い眼差しだった。
「セレイエさんの記憶から知った『デヴァイン・シンフォニア計画』のこと。――私……、まだ、ちゃんと話せていなかったの」
「あ、ああ。今まで、それどころじゃなかったし、迂闊なことを言えば、お前が〈悪魔〉の『契約』に抵触する羽目になったからな」
だから、先延ばしにしていた。
けれど、もはや阻むものは何もないのだ。
メイシアは、こうしてルイフォンの傍に居るし、〈悪魔〉の『契約』は、〈蝿〉の死と引き換えに、事実上、無効となった。
ルイフォンは、彼女と向き合うように、体を起こす。
「話してくれ。『デヴァイン・シンフォニア計画』は、お前が、ひとりで抱えるべき問題じゃない」
ルイフォンとメイシアは『ふたり』で居るのだから、メイシアが『ひとり』で苦しむのはおかしなことだ。
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