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「ただいま」
声が聞こえた気がして、彼は1LDKのマンションの玄関の方を見た。
……空耳なのはわかっていた。ただいつもなら飼い主が帰ってくる時間になったというだけだ。思った通り、玄関扉は開く気配すらなかった。
ふっとため息をついて、黒猫はガラス越しに月を見上げる。浮かぶ三日月は冴えていた。
三日が経った。下僕はまだ帰ってこない。
もうすでに、彼は下僕が帰ってくることを諦めていた。幸い食べるものはある。水も残っている。もう少しの間なら、ここで生活ができる。
棚から滑り落ち、破れた袋からこぼれた餌を食べつつ、彼はこれからどうするか考える。
外も、家の中と同じだろう。夜になると盛んに犬たちの遠吠えが聞こえるところからすると、あまり歓迎できる状況でないのは確かだった。
でもいつかは家を出て行かなければならない。ここにいても、生き残れない。でも……。
下僕。俺が待っている間に帰ってこい。
「ただいま」
その言葉を待っているんだ、俺は。
そうして、五日が過ぎた。黒猫が針のように細い月を見上げていた時、声が聞こえた。
「ただいま」
下僕が帰ってきた!
彼は元は壁だった床を走って玄関に向かう。玄関扉は八十度傾いていた。そんな状態で開くはずもない。のだが、扉は開いた。少なくとも黒猫の目にはそう見えた。
暗闇にぼんやりと飼い主の姿が浮かび上がる。その身体は微かに光を発していた。
「にゃーん(おかえり、下僕)」
……ただいま、クロ。お前は無事だったんだな……。
「にゃあ(猫だからな。九つの命があるんだ)」
……よかった。本当によかった……。
彼は淡く光る下僕の足に体を擦り付けた。その脳裏にビジョンが見える。
彼の下僕は乗っていた列車ごと傾いたビルに押しつぶされていた。ひしゃげて使い物にならなくなった体から離れ、魂だけが黒猫の元へ戻ってきたのだ。
「にゃあ(大変だったね、下僕)。にー(でもあんたは帰ってきたんだ)」
もう大丈夫だよ。
黒猫はかがみ込んだ下僕の額にキスをする。下僕の光が一瞬強く瞬くと、サラサラと砂が崩れるように消えていく。黒猫が瞬きする間に彼の飼い主の魂は消えていった。
……帰ってきてくれてありがとう、下僕。
今度は俺が出かける番かな。地面が大きく揺れて、メチャクチャになった街で俺は生き抜いてみせる。いつか虹の橋の下であんたにあったら今度は俺が『ただいま』と言うよ。
あんたが帰ってくる所は俺で、俺が帰る所はあんたなんだ。だから、しばらく待っていてくれ。
黒猫は破れた窓から飛び出し、地震で破壊され尽くした都市へと歩き出した。生き残る為に。
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