変わりたくない私について

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 夜、ゲリラ豪雨があったせいだろうか。朝、玄関に大きめのサワガニが一匹いた。  縦、横、ともに、七センチほどの大きさがあり、どす黒い体の部分と真っ赤なハサミと八本の足、小さな目で構成されていて、私は恐怖を感じた。  なんとか外に出そうとして、引き戸の扉をガラガラと開け、棒を使ってサワガニを外に出そうとしたが、カニのほうは攻撃されたと思うのか、ハサミを上に伸ばし、威嚇しながら上り框の板の下の、そのまた一番奥に避難してしまった。  それを三度繰り返し、このままでは棒でカニを傷つけてしまうかもしれない、と思い、諦めた。  きちんと扉を閉めて、鍵もかけていたのに、どうやってあんな大きな体で入ってこられたのか。どこかに秘密の出入り口でもあるのだろうか。放っておけば、いつの間にかその秘密の出入り口から脱出するだろう。私が度々見に行くから良くないのだ、きっと。  私はその日、出かける用事もなかったし、来客の予定も荷物が届く予定もなかったので、玄関に近づくのをやめた。  在宅の仕事をダイニングテーブルに広げ、集中しているうちにカニのことを忘れた。  お昼前になり、ハッと思い出し、足を忍ばせて玄関に行くと、カニは玄関のタイルの上で、干からびて死んでいた。  私は箒でそっとカニを外に出した。  少し風が吹いていて、カニはカサカサとアスファルトの上で音を立てて、紙くずのよう流れた。    カニが干からびていたタイルを眺めながら、私は自分の残酷性と罪悪感に苦しんだ。  小学生の頃、私はサワガニを素手で捕まえることができた。なのに、大人になった今はそれができない。がんばったら素手でつかんで、外に出してあげられたんじゃないだろうか。そうすれば、カニは自力で川に戻り、元気に生きていただろう。  どうして私は変わってしまったのだろう。どうして子供の頃できていたことができなくなってしまったのだろう。  変わりたくなかった。強く思う。私はいつも、変わりたくなかった。  私が一人で暮らしている小さな平屋の一戸建て。集合住宅での暮らしが苦手な私が三十五年ローンを組んで建てた、私のお城だ。 「一人で暮らすのに、一戸建てを建てるの?それはもう、結婚しない人生、決まりね」  多くの人にそう言われた。なぜか見下すような醜い笑顔と共に。  そうです。結婚する気がそもそもないんです。なぜなら、変わることが嫌だから。変わってしまったことが原因で、傷ついてしまうから。  長くつきあった彼はこの家によく泊まった。  私はそれが嫌だった。しかし嫌だとは当然言えなかった。好きでつきあっていたのに、自宅には来ないで、なんて。両親と同居していたわけでもないのに。  不便だから、という理由で、少しずつ彼のものが増えていった。  歯ブラシ。茶碗。おそろいのマグカップ。下着。部屋着……。  ときには奇跡のように、永遠の愛、みたいなものが存在するらしいが、多くの愛は冷める、もしくは形を変える。  ある日、ソファでウトウト寝ていたら、クローゼットを開閉する音がした気がして、私はそっと起き上がった。 「トキオ?」  彼は漫画みたいにビクッとした。振り返った顔が引きつっていた。 「『ただいま』くらい言ってよ」 「言ったよ」 「言ってないよ」 「茉莉花、寝てただろ」 「それでも言ってよ」 「わかったよ、うるさいな。ただいま!」  うるさいなって……。  そういうひと言に、私はとても傷つく。すべて私が悪かったような気がしてしまう。  掛け時計を見ると、あと数分で日付けが変わるところだった。 「こんな時間……」  トキオがこんな遅い時間まで残業をしたりしない人だということを、私はよく知っている。彼は合理的でないことを嫌う。その嫌い方はアレルゲンを避けるかのように、完璧だ。 「どうしたの?なんかトラブル?」 「え?うん……シャワー浴びて、寝るよ」  私は浴室に急ぐトキオを捕まえて、抱きしめた。 「おかえり」 「……ただいま……シャワー浴びてくる」  トキオは私の腕を優しく解いた。  脱衣所に入っていくトキオの背中を見つめながら、私はこの恋が終わったことを知った。  トキオからは甘ったるい香水の香りが微かにした。そしてトキオの首筋はいつもより少し温かかった。  それから数日後、私の心と生活は百八十度、変わってしまった。  洗面台の前に立つ。  彼の歯ブラシがあった場所にそれがない。  食器棚の茶碗の位置には私の茶碗だけがポツリと置いてある。  コート掛けにかかっているのは私のパーカー一枚だけ。  だから嫌だったんだ。  一人でこの傷に抗えないくらいに、私は弱いから。  確かにあったものが今はもう無くて、でもあったという空間だけはあって、私はそれをいくらでも思い出せる。  夜、八時前になると、 「ただいま」 と、嬉しさと疲労が混ざった声とともに彼が玄関を開け、キッチンで料理を温め直している私を見つけると 「茉莉花、ただいま」  と必ず名前をつけて、再度、帰宅を告げた。  今でもその時間になると、耳を澄まし、息を殺す。また彼の『ただいま』が聞ける気がして。そしてその度に、そんなことはもうないんだ、と知る。  そういうすべてが『もうない』ことに私は苦しんで、何年も一人で泣く。  もう変わりたくない。傷つきたくない。  風に流れていくカニを眺めていると、隣の小学生の男の子が帰ってきた。 「おばさん、ただいま」 「おかえり、こうちゃん。今日、早いんだね」 「今日、給食なかったから」  こうちゃんはまだ二年生だから私と普通に会話をしてくれるが、成長して、思春期が近くなったら、私となんて挨拶もしなくなるんだろう。  そう思ったときだった。  カサカサ、と微かに音がした。  死んでしまったサワガニがアスファルトの上で起こした摩擦音。  こうちゃんがカニの死骸に気づき、次にゆっくり私を見上げた。  その目は『ただいま』と声をかけてくれたこうちゃんの目ではなく、少しの恐怖と軽蔑を含んだ眼差しに変わっていた。    私はあと何度変わったことに傷つけばいいのだろう。  なに一つ、変わりたくなかった。
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