路傍のやまい

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 年したの上司に頭をしこたま叩かれた。 「本当に使えねーな、おまえは」  手には丸めた意識高い系経済誌。それで脳天をガツンとやられた。反射的にしたを向く。 「すみません」  もう謝ることに抵抗もなくなった。上司に怒られれば、自動的に「自分が悪い」という脳内プログラムが発動し、口からは反射的に謝罪の言葉が出るようになっている。 「AIの方がまだマシだな」  上司の田村(たむら)さんは、チャットGPTにも課金している。本人は勉強のために必要だとか言っているが、スーパーマーケットの正社員にそんなものが必要なのかは、正直、おれにはわからない。もっとも、チャットGPTがなんなのかもよくわかっていないんだけど。 「もういいよ、バイト。今日は帰れよ」  そう言ってさっさとバックヤードを出ていった。 「おつかれさまでした」  誰もいない部屋でひとりごちてグリーンのエプロンを外した。それを従業員用のロッカーに投げ入れる。扉の内側に取りつけられた小さな鏡に映る顔は妙に疲れているように見えた。おれって、こんなに老けていたっけ。三十代も後半にさしかかった自分は、子どものころとなにひとつ成長していないようで、しっかりと老化だけはしているんだなとつくづく感じさせられる。  さっき押したばかりのタイムカードを、寂しい気持ちでまた押した。木下賢治(きのしたけんじ)の名前のしたに勤務時間五十二分という数字が無表情にスタンプされる。おれの労働の対価は一時間で千百八十円だが、これで時給は発生するのだろうか。わからない。  背中を丸めて従業員口から表に出た。黒いツルっとした床の景色が凹凸のあるアスファルトに変わる。上空からはてっぺんに向かってのぼり続ける太陽が首の裏をチリチリと過剰な熱で刺激する。お盆をすぎれば夏の日差しもほんの少し柔らかくなるというのは遠い昔の話だろう。今では八月末のこの時期も、連日三十五度の猛暑日がアスファルトを焦がしている。目のまえに蜃気楼が見えないのが不思議なくらいだ。  平日昼間の商店街は人もまばら。道ゆく人とは目もあわない。路傍の石か透明人間にでもなった気分でスーパーマーケットから三百メートルほど歩いて駅につき、やってきた電車になにも考えずに乗る。乗車時に降車中の若い男性に肩をぶつけられた。
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