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「この御守りはね、あなたを幸せにしてくれるのよ。だから、肌身離さず持っていなさい」
若かりしころの母が、そんなふうに言っていたことを思い出す。
「はあ……」
どうせ実家には帰れない。ひとりでいたって、することもない。それならばという思いで、なんとなく電車を乗り継ぎ、子どものころに住んでいた田舎に向かった。三時間ほど、電車の床をぼんやり眺める。耳の端に、赤の他人の発する音とたまに聞こえる話し声がノイズのように響いていた。
「次はー……」
車内アナウンスが、過去に住んでいた田舎の駅の名前を告げた。電車が停まると車内の電光掲示板を確認もせず、夢遊病者のように外に出た。無人の自動改札を抜け、駅まえとは名ばかりのただの道に出る。
目のまえの風景は、子どものころとまるで変わっていなかった。田舎の二十年は都会の一年のスピードにも満たないとはよく言ったものだ。一瞬だけ自分が過去にタイムスリップしてしまったのかと勘違いする。
おぼろげな記憶をたよりに駅を離れて舗装された道を歩く。ここが歩道なのか車道なのかさえ判然としない。駅周辺になにかしらのお店がないどころか、人がひとりも歩いていないことに驚愕した。数キロほど歩いただろうか。足元はいつのまにか草と土に変わっている。すでに進路は緩やかなスロープのような勾配だ。急で険しい山じゃない。こんな田舎道を歩いていれば、どこまでが麓麓でどこからが山頂かなんて路地裏の車道と歩道の差よりも曖昧だ。上空からはアブラゼミの鳴き声が濡れた雨を降らせてくる。
「たしか、こっちの方だったよな」
周辺の景色に見覚えがあった。やはり子どものころに遊んだ山は、子どものころとまったく変わっていない。歩けばあるくほど、昔の記憶が蘇る。二十五年まえに最後に見た白い自動販売機も朽ち果てたような状態で今でもそこに残っていた。もっとも、子どものころからこの自販機はこんなふうに朽ち果てかけていたような気もするが。
「それにしても暑いな」
さんざん歩いてのどもカラカラだった。
「まだ買えるのかな」
なつかしさと興味にそそられて、角の割れたふたつ折りの財布から小銭を出して自販機に投入する。チャリンチャリンと涼しげな音がして、無機質にならぶボタンに命がともる。田舎の自動販売機にミネラルウォーターや炭酸水など気のきいたものなどない。あたりさわりのないお茶を購入する。心配をよそに、がたんと音がしてしっかりお茶が落ちてきた。PETボトルの口を開け、一気に半分飲み干した。
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