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3.「ただいま」の意味
「そろそろ起きた方がいいかも。遅刻するよ」
変な夢を見たなあ、で済む話だと思っていた。だが、僕にそう声をかけた声は聞き覚えがあるもので、一気に眠気が吹き飛んだ。
髪の長い女が僕を間近く覗き込んでいた。黒髪に白いワンピース。青ざめた頬。
完全にあれだ。
「ええと、もしかして、幽霊的なあれ、ですか」
床に頭をめり込ませたまま言うと、彼女は数秒まじまじと僕の顔を見つめてから呆れた顔をした。
「変わってるね。普通、え? 誰、誰? 怖い怖い怖い!って言いながら飛び起きるものでしょ、この状況」
「飛び起きたいのはやまやまなんだけど、体起こしたらその」
顔が近すぎてうっかり口と口が当たっちゃったらとか思ってしまった、とはなんだか言えなかった。
彼女はきょとんとした顔で僕を見下ろした後、けらけらと笑い出した。
「変な人。そんなんだから彼女も出てっちゃったんだねえ」
「知ってるんですか。あの、なんで」
彼女が顔を引っ込めてくれたので、ようやく起き上がることができた。床で寝てしまって体が痛い。眉間にしわを寄せ、乱れた髪を手櫛で直す僕に、彼女は軽く眉を上げてみせた。
「ずっと私ここに住んでたから。もうちょっと突っ込んで言うと、私ここで死んだから」
「え、ここ、事故物件だったんですか」
「間にひとり住民入ったからね。告知義務なかったんでしょ。あ、でも安心して。自殺じゃない。病死? ってか、お酒飲んで風呂入って死んじゃったから……まあ、溺死?」
からっと明るい顔で、溺死、とか言う。でも全裸ではないんだなと不埒な感想を抱いた僕に向かい、彼女は不意にぐいっと身を乗り出した。
「その私から言わせてもらうと君、お酒の飲み方最悪。いつもの丁寧な暮らしはどうしたのよ」
「……いつも?」
声は聞こえていたがまさか見られていたのだろうか。さすがに顔をしかめると彼女は首をすくめた。
「しょうがないじゃない。地縛霊だもん」
「あの、じゃあ、なんで今まで姿現さなかったんですか。もう少し早めに出てきてもらえればなんかその……」
風呂で鼻歌を歌う姿など見られなくて済んだのに。
飲み込んだ声がなにを言おうとしたのか彼女はわからなかったはずだが、彼女はまた笑い出した。
「大丈夫だよ。トイレとか風呂とかはさすがに覗いてないから。鼻歌は聞いちゃったけど」
「……幽霊になるとテレパシー使えるようになるんですか」
「ふふふ。あのね、私の姿が君に見えた理由は、君が私の呼びかけに応えたから」
「呼びかけ?」
首を傾げると、彼女は僕を真っ直ぐに見てそうっと言った。
「ただいま」
「は……、ああ、はい。おかえり」
条件反射で答える。とたん、彼女はぷっと噴き出した。
「それ。君はさ、招いちゃったんだよ。霊を。霊なんて本来認識されなければ存在しない透明なもの。なのに君は私に気づいて私と繋がっちゃった。知ってる? ただいま、って言葉の語源」
「ただいま帰りました、ですよね?」
「本来はね。でも幽霊の間では違うよ」
彼女は小さく咳払いをしてから厳かに言った。
「ただいまからあなたは私のものです」
「は……」
「だからね」
ふふふ、と彼女が笑う。彼女の瞳の黒がすうっと深くなった気がした。
「君、もう、逃げられないよ」
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