1.はじまりは「ただいま」

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1.はじまりは「ただいま」

「あなたは誰にでも優しいから」  そう言って去られたのは一体何回目だろうか。  前の彼女のときもそうだった。その前の彼女のときも。そして一昨日出て行った美奈代(みなよ)に至っては、「人によって態度を変えないあなたが好き」と言って告白をしてきたくせに、「私にだけ優しくしてほしかった」と言われて去られた。  ただ、言い訳をさせてもらうならば、僕はこれまで付き合ったすべての彼女のことを大切に思っていたし、結婚も考えていた。その他大勢の人々には、結婚したい、なんて思いは当然なかったわけだから、その点において僕の彼女たちへの想いは充分特別だったと感じてはいるが、それはあくまで僕の主張だ。  去られてしまった今、追いかけて言い訳をしても、美奈代にも歴代の彼女にも届かないだろう。  できることはただ、もしも美奈代の気が変わって「ただいま」と帰ってきたとき、「おかえり」と返して迎えることくらいか。  随分受動的だと自分でも思うけれど、まあ、これが僕なのだから仕方ない。  がらんとした2DKで僕は鮭を焼く。  彼女が出て行ったというのに、淡々と鮭を焼いている自分の変わらなさに少し呆れた。  ため息を漏らしながら、作り終えた食事をテーブルに並べ、いただきます、と手を合わせる。鮭の身をほぐし、白米と一緒に口に入れる。少し固い。  ふうっと息を吐いたときだった。玄関のドアノブがきい、と回った音がした。  え、と慌てて腰を上げる。部屋を飛び出し、玄関へ向かうが……誰もいない。  気のせいだったのだろうか。神経過敏になっているな、と苦笑する僕の耳の端を、 「ただいま」 と、声がなぞった。 「は? え?」  見回すが当然、誰もいない。けれど確かに聞こえた。年若い女性の声だった。  その日から、その声は毎晩、僕が会社から帰宅して食事を作り、ダイニングテーブルに着いたタイミングで聞こえるようになってしまった。  最初は隣近所から声が漏れてくるのかと思った。しかし、それを僕はすぐに否定した。右隣は男子大学生のひとり暮らし、左隣は老夫婦。あの「ただいま」の声と合致しない。  もしや幽霊とかその手の類だろうか。さすがに嫌だなあ、とは感じるが、「ただいま」と言うだけで実害はない。悩んだものの、僕は声を放置することにした。  声は毎日「ただいま」と訴え続ける。  姿は見えない。けれども僕にはその声の主がひどく疲れているように思えた。それくらいその声はいつも心細げに掠れていて、やっとのことで辿り着いたと言いたげな脱力感に満ちていたためだ。  どんな思いでこの声の主は「ただいま」を絞り出しているのだろう。気が付いたら声の主に想いを馳せるようになってしまった。  ただ、そうはいっても得体のしれないものであることに変わりはない。だから僕は声などまるで聞こえていないようにふるまっていた。  しかしある日、その注意が一瞬、途切れてしまう。
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