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2.指先
その日、僕は接待のため、とある日本料理店にいた。
もともと酒は強くない。だが営業という職種は昔も今も変わらず「飲む」をコミュニケーションツールとして使う風習がある。ばれないように水を日本酒のような顔ですすっていたのだが、それを取引先の加藤さんに気づかれてしまった。
「ごまかしを平然とするような社員がいる会社とは付き合えないね」
にやにやと笑われ、飲み会に共に参加していた上司の飯田さんが青ざめた。加藤さんの会社は僕の会社にとって大口の取引先だったからだ。
「青木は少し体調を崩していまして。どうかご容赦を」
「ならそう言えばいいのに。黙ってされると気分悪いなあ」
加藤さんは普段はこんなことを言う人ではない。しかし酒が入ると別人だった。ねちっこく絡み、僕の普段の営業態度がいかに熱のない、顧客を不安にさせるものか、滔々と語り始めた。飯田さんの顔がどんどん土気色になっていく。さすがにまずいと感じ、僕は座布団の上で居住まいを正した。
「加藤専務、一杯、いただけますか」
背筋を伸ばし、お猪口を差し出すと、加藤さんが相好を崩した。そうかそうか、と満足げに頷きながらとぷとぷと注がれたそれを僕はぐい、と飲み干した。
結局何杯飲んだのか、まったく記憶にない。だーいじょーぶでーす、と加藤さんと飯田さんに笑ってみせたのが最後の記憶だ。
目が覚めると部屋に帰ってきていて、どうしようもなく冷たい床の上、寒さに縮まってスーツの前を掻き合わせていた。
疲れたなあ、と声が漏れた。その僕の耳をすっと声がなぞった。
「ただいま」
いつも通りの台詞に思わず笑ってしまった。
「おかえり」
ただいまは僕のほうだけどなあ、と思いつつ言ったが当然、返事はない。その間にもどんどん瞼は重くなる。体を丸めた僕の頬に誰かが触れたのがわかったけれど、僕は目を開けることができなかった。
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