5.君の「ただいま」を僕は

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5.君の「ただいま」を僕は

 早く帰ると言ったのに、残業になってしまった。結局、家に帰りついたのは十時過ぎだった。 「おかえり」  くたくたに疲れてドアを開けると、柚乃さんが笑顔で手を振ってくれた。 「た、だいま」  呟いた自分の声がふわりと熱を帯びる。  ぼろ雑巾のように疲れた体に柚乃さんのおかえりが沁みた。 「柚乃さんもうれしかったですか?」  問いかけると、柚乃さんが、ん? と問い返してくる。 「おかえりって言われて、うれしかったですか?」  部屋に入り、ソファーに体重を預ける。柚乃さんはなにも言わない。おや、と思って顔を上げると、柚乃さんはソファーを背もたれにして床に座りながら膝を抱えていた。 「うれしいけど、寂しいね」  寂しい? と首を傾げる僕に、だって、と柚乃さんは掠れた声で言った。 「盾くんは私とは違う時間を生きてるじゃない」  そう言って柚乃さんは笑う。頬がいつも以上に青白く見えた。  思わず手を伸ばす。けれど、彼女の頬に手を触れることはできず、僕の指先はほんのり冷たい空気を裂いただけだった。 「これ、触れるようになるのは、僕が死んだら、なんですか」  少し疲れすぎていたのかもしれない。そう言うと、彼女は数秒押し黙ってから、唐突に立ち上がった。 「いろいろ考えたんだけど。私さ、ここ出て行こうって思うの」  は、と妙な感じに空気が口から漏れた。 「どうして」 「どうしてって。おかしいでしょ。こんなの」 「でも、地縛霊でしょ。出て行けないんじゃ」 「知らないだろうけど、地縛霊ってさ、もういいって自分で思えれば行けるんだよ」 「どこに?」 「天国」  軽快に言い切った柚乃さんが、僕をじっと見つめる。 「自殺じゃないって言ったけど、死んでもいいって思ってお酒飲んでたんだ。あの夜」  あの夜、と言ったとき、柚乃さんの目がすっと暗くなった気がした。 「私ね、まあまあ仕事ができる女だったの。一緒に住んでる彼氏もいて。彼は頑張ってる私が好きって言ってくれた。でも、それは本心じゃなかった。ある日、言われたの。『君は強いから俺なんていらないよね』って。そうして彼はこの部屋を出て行った。私も、私があげたものも全部残して」  なぜかつきり、と胸が痛んだ。その僕の痛みを見抜いたように柚乃さんが目を細めた。 「言われて思った。なんでそれをあんたが決めるのって。でも私は彼氏にそう言わなかった。『そうだね』って笑って別れた。彼が、苦しそうだったから。盾くんならこの感覚わかるよね、きっと」  ああ、そうだ。僕もそうだった。 ──私にだけ優しくしてほしかった。  そう言われる度、思っていた。僕の中にある優しさの量を君に決めつけられたくない、と。  僕は好きだった。恋人のことを。他の誰よりも。それを僕なりのやり方で示してきたつもりだった。でも彼女たちは言う。足りない、と。  僕にはもう、どうしていいかわからない。  柚乃さんの中には僕と同じ苦悩があった。思わず共犯者を見るような目で彼女を見ると、彼女は静かに目を逸らして笑った。 「仕方ないんだよ。違う人同士だもん。それでも決めつけられて切り捨てられるのは辛かった。少しずつすり合わせて、『ただいま』『おかえり』って言い合える関係がほしかった」  声が滲む。柚乃さん、と呼びかけて手を伸ばす。でも彼女の頬にやはり、僕の手は届かない。 「正直さ、君を見てると腹が立ってた。だから声かけちゃった。あんまりにも……自分に似てて。でもさ、君、気づいてた?」 「なにを、ですか」 「食事してるとき、空っぽの目をしてたこと」  ふっと僕は息を止める。その僕に柚乃さんは微笑む。 「あの目をやめさせたかった。本当は傷ついているのに、諦めて自分から手を離す、そんな君を変えたかった。まあね、ただの幽霊にそんなことできるわけもないし、なにより」  言いながら柚乃さんは困ったように肩をすくめる。 「私がね、君との生活が楽しくなっちゃって。そうなるとさ、本気で削っちゃうんだよ」 「なにを?」 「君の寿命」  朗らかに言われ、ふっと言葉が途切れる。柚乃さんはふふふ、と低く笑い声を漏らす。 「冗談だと思ってた? ただいまからあなたは私のものです、ってあれ、まあ、口頭の契約なんだよ。こっちが解除しない限り、この先ずっと君の寿命は私に吸い取られる。すると、君は死ぬ」 「……いつかは死ぬんです。それが遅いか早いか、ですよね」  気怠く返したとたん、首筋に圧を感じた。  いつの間にか彼女は僕の隣に座っており、僕からは決して触れなかったはずなのに、彼女の指が僕の首を絞めつけていた。 「君は傲慢だね」  柚乃さんの指先に力が込められていく。呼吸が妨げられ、喉が鳴った。 「それはさ、生きているから言える言葉なんだよ」  目の前が暗くなる。我知らず腕を伸ばしたとき、すっと喉元から指が外れた。一気に入ってきた空気にむせ返った僕に、柚乃さんの冷たい眼差しが刺さった。 「ほしいものをほしいって言えるのは生きてる人間の特権。それをわからないまま死ぬと私みたいになる」  すうっと冷たい指先が頬をなぞる。その感触にふっと僕は目を見張る。  柚乃さんの顔が僕のすぐ目の前にあった。柚乃さんは、泣いていた。 「生きて、ただいまって言えたらよかったな。君に」  柚乃さん、と言いかけた僕はしかし言えなかった。柚乃さんの両腕が僕の頭を抱きしめていた。 「ただいまをもって私たちの生活は終わります」 「柚乃、さん」 「盾くん」  あれほど大きかった彼女の声がそよ風のような掠れ声となって僕の耳元で囁いた。 「別れた彼女に連絡してみなさい。大丈夫。ちゃんと伝えれば大丈夫」  ゆっくりと柚乃さんの輪郭が空気に混じっていく。彼女の腕を掴もうとしたけれど、僕の手はやっぱりなにも掴むことができぬまま、彼女は消えた。  ひとり残され、僕はぼんやりと中空を見上げる。  彼女に連絡しなさい、と言った柚乃さんの声を思い出しながら、僕はスマホを取り出し、言われるまま美奈代のIDを呼び出した。  そしてそれを……削除した。  だって僕が声を交わしたい相手は、美奈代じゃなかったから。  柚乃さん。  彼女はここにもういないのだろうか。僕にはわからない。  でも、もしもいてくれるなら僕はあなたにやっぱり「おかえり」と言ってあげたい。  ずっと思っていたのだ。あなたの「ただいま」はあまりにも寂しそうだ、と。  柚乃さんはそのことに自分で気づいていたのだろうか。この部屋にひとり残り、ずっと「ただいま」を発していた彼女は。  ねえ、柚乃さん。  あれから何日も経つ。でも、僕は未だに彼女の声を探してしまっている。  ただいま、と頼りなく玄関に落ちる声を。  おそらくは彼女の本質であるだろうあの声を、まるで自分の心のように抱きしめたくて。 「おかえり」  帰宅して、ドアを開け、僕は今日も声をかける。  彼女の「ただいま」を待ちながら。
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