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一
「いいわ。別れてあげる。その代わり、わたしのお願い、一つだけ聞いてくれる?」
俺の目の前で、彼女が長い髪をかき上げた。
艶やかな黒髪が頬を掠め、甘い匂いが鼻腔の奥に這入り込む。
軽くむせた俺の鼻先に、彼女がそっと両手を差し出した。
掬んだ掌に、白木の小さな箱が載っている。
手製だろうか。
どこか棺を思わせる、薄気味悪い箱だ。
蠱惑的な笑みを黒い瞳の深淵に湛え、彼女が瞬きもせずに俺を見上げる。
「あの山のあの場所へ、この箱を持って行って。そこに着いたら、箱の中身を投げ捨てて」
彼女が目を細め、うふふと笑う。
「場所、あなたなら分かるでしょ?」
彼女の意図を察し、俺は即座にうなずいた。
学生時代から付き合いのある彼女のことだから、言いたいことはすぐに判る。
それに、妻の出産が間近だ。
細く長く続いたこの関係も、清算しない訳にはいかない。
浅くうなずき、俺は彼女の手から箱を取った。
同時に、箱の陰に隠れていた左の掌に、青く小さな斑点が見えた。
薬指の根元にある、珍しいほくろだ。
しかしそのたおやかな手は、すぐにほくろを隠すように握られた。
ふふっと笑った彼女が、謎めいたつぶやきとともに、くるりと背中を向けた。
「お願い、よろしくね。奥さんと、生まれてくる娘さんを大事にしてあげて」
肩越しの絡みつくような視線を寄越し、彼女は開け放った窓から夜半の空へと身を躍らせた。
俺がひと声も上げる間さえなく。
そして俺は、逃げるようにその場を立ち去った。
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