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二
翌朝。
まだ暗いうちに出勤準備を終えた俺は、妻が目覚めるより早く家を出た。
だが行先はオフィスではない。
最期に彼女が仄めかした、あの場所だ。
彼女の意図は全く分からない。
しかし彼女の最期の意志だけは、黙殺できない気がしていた。
電車とバスを乗り継いで東北地方へ向かい、正午前に俺が独り降り立ったのは、都会から幾つも山並みを隔てた小村の無人駅だ。
駅前の通りに、人影はない。
その埋め合わせのように、石で作られた特産のこけしだけが、ただ点々と立ち尽くしている。
そんな寒々とした駅前の佇まいは、十数年前から何も変わっていない。
だが一つだけ違うのは、あの時ここを訪れた俺の横には彼女がいた、ということだろう。
当時の彼女は、民俗学を専攻する学生だった。
彼女の言葉を借りるなら、『妖魅が棲む山奥の隠里』や『中有の亡者の憩いの場』としての山、それが彼女の研究テーマだった。
畑違いの俺には理解の及ばない世界だが。
そんな俺には、この寒村は彼女とのちょっとした旅行先に過ぎなかった。
だが彼女にとって、この村は卒論のための貴重なフィールドワーク先だったらしい。
つまり今なおこの村に残る奥山への信仰を実際に聞き取り、村人が崇める奥山をその身で“体験する”こと、それが当時の彼女の目的だった。
そしてその奥山こそが、俺と彼女の最期の目的地だ。
駅舎から一歩踏み出した瞬間、俺のポケットの中でモバイルが激しく震えた。
コールに応えると、相手は産婦人科だ。
どうやら妻が倒れ、救急搬送されたらしい。
このままでは流産の惧れがあると、相手は緊迫した口調で俺に告げた。
真っ暗に暗転しかけた俺の視界に、奇妙な光が差す。
――ここでこのまま引き返すことはできない――
どこから湧いたのか判然としない想いに急かされて、俺はモバイルを取り直した。
できるだけ早く出張を終えて病院へ急ぐと伝え、俺はかつて彼女と踏み入った寒村の奥山へと向かった。
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