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正直、エティエンヌは女性というものが苦手だ。フランスの名家であるド・ヴァロアの跡継ぎ息子という欲目から、愛情ではなく金勘定を優先して接してくる女性に、幾度となく悩まされてきた。
今回の「リリカ」も同じだろう。そう思っていると、個室に1人の女性が入ってきた。
背中に揺れる艶やかで長い黒髪。肌理の整った肌。美しい茶色の目。清潔な白いシャツに動きやすそうなパンツスタイルでもわかるほど、彼女のボディラインはエティエンヌの目を引き寄せる。
椅子から立つのさえ忘れるほどの衝撃を受けたエティエンヌへとどめを刺すように、彼女の可憐な唇から放たれたのは驚くほど滑らかなフランス語だった。
「はじめまして、諏訪梨々香といいます。父からよく貴方の話を伺っているわ」
この日ほど、エティエンヌが自身の固定観念にとらわれた妄想を恥じた日はない。
話せば話すほど、梨々香の料理や文化への知識、そして料理を通じて食べた人を幸せにしたいという情熱が伝わってくる。
なによりも、料理に熱中していることが伺える手の傷や火傷の痕は、エティエンヌにとって好ましさの対象だった。
それから1年。
2人は学校帰りに、レストランやカフェで料理を食べ、感想を言い合うために出かけるような仲になっていた。
エティエンヌはもっと梨々香と仲良くしたい、出来ることなら恋人になりたいとは思っている。しかし残念ながら、彼には経験がない。
できるのは『このレストランが人気らしいよ』と話しかけ、食事に一緒に行くことくらいだった。
「エティはアルプスに登ったことはある?」
到着したレストランで梨々花が問いかけた。
エティエンヌは軽く頷きながら、食べていたバケットを飲み込んでから話す。
「もちろん。何なら、趣味みたいなものだ」
「本当? 良いルートを知らない?」
「なら、今度の休みに一緒に行こう」
このときの提案を彼は後悔していないが、もっとよく考えろと今は思う。
待ち合わせに現れた梨々香は、スポーティーな登山服に身を包んでいた。
「おまたせ、エティ! 今日はありがとう」
笑顔を浮かべた彼女は、普段とは違う魅力に満ちていた。
嬉しそうに言った梨々香から、清潔なサボンの香りがする。おかげで自分の返事が奇妙な声になったことを、エティエンヌはひどく恥じたのだった。
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