窒息

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窒息

 貴方は独り、底へ沈んでいく。  いつからかも、いつまでかも分からないまま、ただ深く深く沈んでいく。眼前を今、見知らぬ形状の魚らしきものが通り過ぎていった。頭上には、海月のような泡が無数に漂っていく。それらはきらきらと輝いて、まるで星屑のようだった。  だからといって、周囲が碧いわけではない。ラベンダー色なのだ。有り得ないほどに、貴方が生涯見たことのないほどに。麗しいライラックに染められていた。  透き通るような水は空気のようで、今更ながら、貴方は呼吸に困らないことに気付く。光は、頭上ではなくあらゆる方向から降り注ぐ。果たして本当に其処が水中かも確信を得られないまま。貴方は底へ沈んでいく。  貴方は少し身じろぎをして、抵抗を試みた。水を腕でかき、脚で蹴ってみた。だがどういうわけか、水流は起こらない。進行方向は相も変わらず、遥か底の方だ。  貴方は徐々に恐ろしくなる。そこにいる理由も、自分が何者かも思い出せない。何か、背筋が凍るような予感がした。  貴方は誰なのだろう。  貴方はどこから来たのだろう。  貴方は、どこへ向かっているのだろう。  いつの間にか、来た道も、向かう先も、何ひとつ分からなくなっていた。それでも貴方は、抗わずに沈んでいく。どこからか襲い来る焦燥に蓋をして。見えそうで視えない真実から目を背けて。  貴方は気が付けば、いき苦しくなっていた。先程までは何の問題も無かったはずなのに、今も、同じように息をしているはずなのに。幾ら吸っても酸素が足りなかった。恐怖で過呼吸気味になりながら、尚も貴方は必死に呼吸しようとした。  美しい薄紫の空は、いつしか地獄に見えていた。足下が、とうとう暗くなり始める。上下の境も分からなかった世界が、皮肉にもここにきて明瞭になりつつあった。  次第に正常な理性を失いながら、貴方は唐突に喉の渇きを覚える。辺りにはこんなにも水が溢れているのに、喉が渇いて仕方ない。口を開けても、水も空気も入ってこない。はくはくと口を動かしても、何も変わらなかった。  唇から溢れるほどの水が欲しかった。冷たく染み渡るような、新鮮な酸素が欲しかった。  貴方は只管、それを欲し続ける。永久に充たされないまま、ただ沈み続ける。足下の暗闇は徐々に大きくなり、貴方を意識ごと呑み込んでいく。どれだけ足掻いても、手に入れられないまま。貴方は少しずつ、深淵へと引き摺り込まれていく。  薄れゆく意識の狭間で、暖かな木漏れ日のような、そんな泡たちが、遥か頭上を通り過ぎていった。  そして、貴方は、  ◇◇◇◇  ――そして私は、透き通った薄紅色の水時計を、何度目とも知れない動作で、ゆるりとひっくり返すのだった。
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