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第四話 交換条件
やっぱり現代の私が過ごしている社会と……似ているようでなにか違う……
そう莉子は、透子さんが押し入れから引っ張り出してくれた少しかび臭い敷布団の中で、先程お喋りした時の透子さんの様子を思い出しながらぼんやりと考えていた。
隣で寝ている透子さんはもうとっくに眠ってしまっているようで、時々思い出したかのように軽いいびきが聞こえてくる。
そりゃ、確かにこっちでもそういう殺伐としたニュースとかなんてしょっちゅうだし、皆余裕がない雰囲気とかあるけどさぁ…
それでもやっぱり何か暗さの種類みたいなものが違うような…、と莉子は自問自答を頭の中で繰り返す。
どうせこんなことになっちゃって不安なんだもん。色々考えないと眠れないよ…。それに、変にあそこの店で寝ちゃったのもあって、中途半端に目も冴えてるし…。
透子さんは寝る前に莉子にぼそっと、
「言っとくけどここに居候すんなら何かしらのそれに見合ったこと、してもらうよ。」
と言ってきた。
アンタ、ガッコは?と聞かれ、莉子は咄嗟に
「あ、えっと今は行ってません。その、きゅ、休学してるんですっ。だから、日中はずっと家にいますっ。」
と嘘をついた。
だって仕方がないじゃん…。学校に行こうにも、私の籍を置く学校なんてこの時代には存在しないんだし…。
そう莉子は自分で自分に言い訳をしてみる。
透子さんはそれを聞いても特に驚く様子も無く、淡々と
「あそ、じゃ、ウチんちのそーじとか、片付け、洗濯、所謂、家事手伝いと…、あとはそうだね、時々裕美がうちに来るから相手してやること。」
これが交換条件ね、と伝えると
「じゃ、明日からよろしくっ」
とだけ莉子に伝えて布団に潜り込んでしまった。
ま、いっか…。家事手伝いなんて家でもよくさせられてたし。
莉子の母親は元々、あまり家事全般が得意な人ではなかった。今よりもまだ元気があった頃はパートに出掛けることもあったため、少しは家事してよっ、と中学の頃から莉子が指摘するたびに
「いーじゃん、おかーさんも働いてんだし。かわりにほしーもん買ってあげてんじゃん。莉子、家事得意なんだし。適材適所ってヤツよ。」
とニヤニヤしながら言っていたものだった。
お金のことを出されると莉子も、まだ自分自身があまり稼げる立場でもないこともあり、ぐうの音が出ず、渋々母親の分の下着の洗濯や、リビングの掃除をしていた。
あたし別におかーさん程無駄遣いしてないよ、等の文句をぶつくさ言いながらも、特に家事が嫌いでも苦手でもなかった莉子は、兄や姉が出ていった後の無駄に広く、その癖、莉子が学校から帰ってきてもしんっ…としている家の中で、掃除機や洗濯機の音を響き渡らせていた。
そんな母が殆どパートに出なくなったのは、莉子の高校受験を間近に控えた1月の終わり頃からだった。
その頃から母は、なんだか最近お腹が変な感じがすると度々話していた。
元々母はそこまでお腹が丈夫な人でもなかった。
それなのに西洋かぶれからなのか、バブルの頃の雰囲気を楽しみたいからなのか、母はよく通販で高級そうな紅茶や洋菓子など、消化に悪そうな物を取り寄せて来ては、母方の実家から無理矢理拝借したリビングテーブルに、レースのテーブルクロスを敷き、高級そうなティーカップやお皿でうっとりと、優雅なお茶会を繰り広げるのが好きだった。
そんな母の様子を知っている莉子が「そーゆーことしてるからお腹おかしくなるのっ。ちゃんと食べるもの和食にしなっ。そしたらそんなこと無くなるのっ。和食は消化に良いんだからっ。」
とまるで子供を叱る母親の様に母を叱り、それに対して母が
「あーはいはい、そのうちね。なんか和食って地味なんだもーん。やっぱしこーゆー食べるものはお洒落なのがいーんだもーん♪」
等とヘラヘラしているのが、普段父が仕事出掛けてる時の西村家の日常だった。
莉子も何処かで、普段から飄々としている母の姿に見慣れているのだから、何だかんだ問題は無いのだと思っていた。母もきっとそうだったに違いない。
そんな母が倒れたのは、耀司お兄ちゃんが去年小学生になったばかりの息子と、奥さんを連れて実家に遊びに来ていた土曜日の午後だった。
いつまで経ってもトイレから出てこない母を見かねて心配になった父親は、トイレの中でお腹を抱えて泣きながら苦しいっと呻いている母の姿を発見した。
そこからは急で、莉子は何が何だかよく分からなかった。
救急車に慌てて電話をかける父親の姿。
父に付き添いながら病院で医師と話している兄の姿。
莉子ちゃん、大丈夫だからねっと励ます兄嫁の姿。
おばーちゃんどーしたの、と状況の異変を敏感に感じ取っている甥っ子の姿。
そして何より小さくやだやだ、おかーさん、死んじゃやだと呟く自分の姿。
どれもすべて現実じゃないよ、絶対と莉子は無意識に自分自身に言い聞かせていた。
皆がそうやって心配する中、母の腸閉塞の原因となっていたポリープの切除手術は無事終わり、莉子は後日、入院している母の病室にお見舞いに行った。
母は
「あー、莉子っ。ごめんねぇー、心配かけて。やっぱり消化に悪いものの食べ過ぎは駄目だねぇー。さっきお母さんお医者さんに怒られちった。洋食は元々日本人の体に合わないんだからっ…て。」
莉子の言った通りだったねと話している母の姿は莉子の目には何処か、莉子達を安心させようと無理に気丈に振る舞おうとしている、痛々しい姿に写った。
そ、そーだよ。馬鹿じゃないの、といつもの調子でツッコむ莉子の言葉に母は少ししゅんとした表情で
「うん…馬鹿なおかーさんでこめんね。」
と呟いた。
やめてよそーゆーのテンポ狂うじゃん、とぶつぶつ文句を言う莉子は何だか母の中で、前のお気楽そうなヘラヘラした母が目の前から消えていってしまいそうで不安を感じた。
あの一件以来、母は通販でお茶も洋菓子も、頼むことは無くなった。
家に残っていたお茶とお菓子は、母が入院している間、莉子を心配し会いに来てくれた、当時高校を卒業した後も大学進学も、就職もせず、アルバイトをしながら無理に仕送りと、学生の頃のバイト等で貯めたお金で一人暮らしをし始めてた律子お姉ちゃんに、全てあげた。
そのことを報告した時も母は文句も言わず、ただ一言、そう、とだけ返事した。
父はあの一件で、莉子以上に家族が食べるものに五月蝿くなった。今家に残っている家族の中で、まともに料理が出来る人は誰一人としていないため、相変わらず母が元気だった頃と同じように、お惣菜だよりの食事ではあったがそれらは全て、父が買いに行くことになった。
前より皆が家族の体調に気を配る、いい環境になった筈なのに、莉子は何処か自分の家や家族が前のように穏やかで、呑気な雰囲気から遠ざかってしまった様に感じた。
その頃から父も父で慢性の高血圧からなのか、よく頭がくらくらすると言っては横になることが多くなった。ご飯用のお惣菜を会社の帰りに買ってくるとすぐに寝室に行ってしまう父。
そんな父を見かねて最近は莉子が父の代わりに惣菜を買ってくることも多くなった。母が倒れて間もない頃から莉子は、私がご飯の準備をすると言っていたのだが、父は
「お前にやらせると不安だ。小麦が大量に入ったものやら、辛い刺激の強いものやらを買ってこられたら困るからな、」
と、なかなか食事準備を手伝わせてはくれなかった。
母も最近はぼんやりすることが多くなり、前のように一緒にふざけながらお喋りすることも少なくなっていった。
莉子はお気楽で自分の体を大切にしない母に不安はあったが、逆にそのお気楽さに救われていたということも実感していた。
そんな様子を見たお姉ちゃん達は
「やっぱりさぁ、あーゆお腹周りの病気って自己肯定感下がるからねぇ。」
「そうそう、特にうちら女はあーゆーの許せなくなっちゃうもん。すごく自分が汚く見えちゃう。
特にそんなかでも、うちのかーさんは、うちらもビビるくらい美意識強い『女!』みたいな人だったからねぇ…。」
「そーそー、正直、うちらより『女』してたもんね…。」
と元気のない母の様子に理解を示した。
あんたも大変だね、と姉二人は莉子の頭を撫でながら話しかける。
「頑張れ、うちらも時間があったらちゃんと家に帰ってくるよ。何より、あんたは『奇跡の子』なんだからっ。」
そう言って二人はふふふっと笑った。
莉子が『奇跡の子』と呼ばれる所以は、当時からあまり体調が安定せず、月経不順に陥っていた母がどういうわけか身籠り、産んで大丈夫なのかと心配する家族の声を押し切り、産むことを決めた母親の意志を組んでか、莉子は莉子で出産時間、僅か2時間という驚異の記録で母の体から飛びだしてきたこと、そして莉子が産まれてすぐのタイミングで役目を終えたと言わんばかりに、母が閉経したことから来ている。
「とーさん、なんでハッスルしちゃったのさ…。」
莉子はこの話を聞く度、破天荒な母の行動は然ることながら、あんなに若い頃から、仕事一本でバリバリエリート街道を進んでいったという堅物な父親が、なぜ母の体に種を残していったのか…という事実に頭を抱える。
そんなことを布団の中で思い出していると急に、大きな寂しさ、心細さが莉子を襲った。
おとーさん、おかーさん、こーきおにーちゃん…、まりこおねーちゃん、のりこおねーちゃん……。
あいたいよぉ…
そんなことを思いながらも莉子は、どこかで透子さんには泣いてることをバレてはいけないと、必死になって静かに泣いてる自分が間抜けだなぁ…とも、思った。
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