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「ただいま」付き物件、あります。
『ただいま』
午後六時。今日もぴったりの時間に声が聞こえる。
「おかえり」
私は玄関のほうを見ながら、小さく返事を返す。そこには誰もいない。
――都心の駅近。築三年のオートロック付き物件。少し手狭だけど、信じられないくらいの好立地にありえないくらい安い家賃。その理由が、コレだ。
平日の午後六時になると玄関から聞こえる「ただいま」の声。ただそれだけ。けれど、『幽霊物件』と呼ばれるには充分な現象だった。
物件オーナーや不動産会社の人も、お祓いや胡散臭い霊能力者まで、ありとあらゆることを試したそうだけど、特に事故物件でもなければ土地が曰くつきなわけでもないことが証明されただけ。
安定した借り手などつくはずもなく、タダ同然になってしまう家賃。そこに私は、大学進学で上京してからかれこれ四年以上住んでいる。
『ただいま』
「おかえり」
心霊現象をまったく信じていないとか、そういったことでもない。あっても不思議じゃない。その程度の認識だ。
『ただいま』
「おかえり」
なぜみんな、そんなに毛嫌いするのだろう。これまで接してきたどんな男よりも穏やかで、低く落ち着いた声色は、こんなにも安らぎを与えてくれるというのに。
『ただいま』
「おかえり」
幼いころに父親を亡くしたのも関係があるのかもしれない。もう声も覚えていない。何も語らず、何も語れない。アルバムの中だけの父親が。
『ただいま』
「おかえり」
だから私は、今日も聞こえる声に返事を結ぶ。
春から会社勤めが始まってからも、定時には必ず仕事を終え、同僚たちの誘いも断って、まっすぐ家に帰る。この時間のために。
◇
……しまった。電車が止まっていたせいで、帰宅時間に間に合わなかった。こんなこと、これまでにただの一度だってなかったのに。
思えば今日は、朝からトラブルの連続だった。寝坊で遅刻しかけるわ、大事な書類を忘れて営業先に行ってしまうわ、こういうときに限って虫の居所が悪い上司にねちねちと嫌味を言われ続けるわ。
それでもなんとか定時までに仕事を終えたのに、とどめがこれだ。ホント、ついてない。
這う這うの体で玄関ドアを開ける。
「……ただいま」
大きなため息とともに、無意識につぶやく。すると、
『おかえり』
聞き間違いじゃない。いつもの安心させてくれる声で、確かにそう返事があった。
◇
「ただいま」
『おかえり』
あれから、今度は逆の立場になったやり取りが続いている。
午後六時の『ただいま』は無くなってしまったが、その代わり、何時に帰ってきても「ただいま」と言えば『おかえり』と返ってくる。
焦って帰宅する必要がなくなったので、仕事にも余裕をもって向き合えるようになり、同僚との交流も増えた。誰かが待っているというのは、こんなにも心強く感じるものなのか。生まれ変わった気分だった。
「ただいま」
『おかえり』
どんな一日でも、このやりとりだけは変わらない。これからも、ずっと。
◇◇◇
「あなたとも、お別れね」
どれくらいの時が経っただろう。今日、私は長年暮らしたこの部屋を去る。パートナーとの新しい生活のために。
就職するまでろくな交際の経験もなかった私にこんな日が来るとは、思ってもみなかった。少し前までの自分が見たら、これこそオカルトだと信じてもくれないだろう。
相手はこの春に入社した直属の部下。てっきり自分の好みは年上だとばかり思っていたので、二重の驚きだった。
新生活だからといって無闇矢鱈と贅沢をするつもりはない。けれど、将来のことを考えると、この部屋はさすがに窮屈すぎる。
「だから、ごめんね」
何もなくなった部屋を眺めながらつぶやく。返事はもちろんない。
あれから色々な言葉を投げかけてみたが、変化があったのはあの時だけ。たった一度の奇跡か、はたまた気まぐれか。もっとたくさん話してみたかったが、それももう叶わない。
「あまり気にかけすぎると、ヤキモチ妬いちゃうしね」
彼にはこの部屋の秘密も話した。すべてのみこめているわけではないのは、私が引っ越すことを決めた際の喜びようからもわかる。それでいい、と思う。
これからは、彼が「おかえり」と言ってくれる。それに、私も。この部屋で「おかえり」が言えなくなって少し寂しかったから、密かに楽しみにしてる。
「じゃあ、そろそろ行くね」
新しい部屋で彼が待っている。いつまでも留まっているわけにはいかない。
玄関ドアに手をかけ、もう一度振り返る。
「ありがとう」
ふと、ついて出た言葉。そして、
――どういたしまして。
閉まるドアの向こうで、そんな声が聞こえた気がした。
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