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山場師
その老父は噂どおり、人里離れたこの山奥で生活をしていた。都市伝説まがいのネタを取材するほど暇じゃない。ただ、手つかずのお宝は喉から手が出るほどに欲しい。そんなライター魂が、俺の足をここまで運ばせた。
「――で、あなたが山場師というのは、ほんとのことでしょうか?」
椎名と名乗る年老いた男は小さく頷いた。
「名もなき者の人生なんて、本来ならたいして起伏もなく、それはそれは平坦で退屈なものだよ。ところが皆、予想もつかないことが起こるじゃろう? なんでだと思う?」
「もしかして、それを椎名さんが?」
「そうさ。ワシら山場師がやっとるんじゃ」
朽ちて久しいであろう木材で造られた掘っ建て小屋。少しの風にもギシギシと頼りない音をたてる始末。晩年を迎えた男の終の棲家というやつか。
「これまでにどういった山場を手掛けられたのでしょうか?」
「そりゃ、ご想像のとおり。かけがえのない人と出会えるよう筋書きを書いたり、スポーツの大会で優勝できるよう舞台を用意したり。もちろん、人に降ってくるのは幸せな山場だけじゃない。禁じられた男女関係が露呈して修羅場を迎えるシナリオや、大切な人との死別なんかもそうよなぁ。まぁ、忘れようと思っても忘れられぬ瞬間が訪れるのは、ワシら山場師の仕業よ」
そう言うと椎名は、すっかり抜け落ちて、残り少なくなった歯を見せて、大いに笑った。
「なるほど。我々の一生の中に、ドラマチックな瞬間を演出してきてくれたのですね。それは感謝しないとなぁ――ところでご自身の山場は?」
「どれほど巧みな腕前を持った山場師でも、自らの人生に山場を設けることはできないからのぅ」
「では、まだ山場は来ていないと?」
「そんなに心寂しい老いぼれに見えるかい? こんなワシにも山場はあったよ。ある日、このボロ小屋の玄関をノックする音が聞こえてなぁ――」
椎名の言葉に呼応するように、背後の室内ドアをノックする音が。不意を突かれた俺は仰け反るように振り返った。
鈍い音をたてて開かれたドア。そこには、ひどく背の丸まった老婆が立っていた。
「ある日、彼女がこの小屋に現れたんじゃよ。コンコンと玄関をノックしてねぇ」
そう言うと、椎名は丸めた拳を小刻みに振って見せた。
「ワシの妻だよ」
椎名からの紹介を受け、老婆はしおらしく微笑んだ。
「どうしたんだい?」椎名が尋ねる。
「せっかくのお客様、お茶でも淹れて差し上げたほうがよろしいんじゃない?」
妻の提案を耳にした椎名は、少し間を置き、何か思いついたようにその表情を明るくさせた。
「あとでワシが淹れて差し上げるから、お前もこっちに来て話してあげなさい。君にも興味深い話があるだろうから」
老婆はよろよろとした動作でこちらに歩み寄ると、無造作に放ってあった丸椅子を手繰り寄せ、そこに腰を下ろした。
「こちらの小屋にはどういった理由で?」
「あらまぁ、お恥ずかしい。そんな大昔のことをお尋ねになられるのねぇ」
椎名の妻は口元に手を添え、うぶな少女のようにはにかんだ。
「実はこのわたしも、細々と山場師をしていたんですよ。ある日、とある山奥に偉大な山場師がいると聞いたもんで、胸が高鳴り、一目散にここを目指したものです。師に憧れを持つ女心というやつかしら。まぁ、若い頃の話ですよ」
「なるほど!」
「椎名さんにとっては、奥さんとの突然の出会いが人生の山場だったというわけですね」
俺は思わず声を弾ませた。
「わたしが用意して差し上げた山場です」
「実にありがたい話だよ。妻がここに来てからというもの、たいそう賑やかな暮らしができた。今もそうだよ。こうして満たされている。ほんとうにありがたい話だ。ただねぇ――」
そこまで言って言葉を濁す椎名。インタビューを受けるのがまんざらでもないのか、芝居がかった素振りで視線を足元へと落とした。
「いつか、いつの日かと、常々思っているんじゃよ」
「それは、どういったことを?」
「せっかくこんな山場をもらったにも関わらず、妻にはまだ山場を用意してあげられていない。大ベテランの山場師としたことが、実に情けない……」
「まぁ、ゆっくりして行ってくださいや」
場の空気を湿っぽくしてしまったことを気にかけたのか、椎名は丸椅子から立ち上がると、「お茶を淹れてきますよ」と言い残し、彼の妻が出てきたドアの向こうへと姿を消した。
「威厳たっぷりのご主人ですね」
「それだけ多くの人の人生を見てきた方ですから」
いまだに憧れを持ち続けているのだろう。彼女の瞳からは、夫への深い恋慕が滲み出ていた。
しばらくして、奥から椎名が姿を見せた。
「どうぞ」
手にした湯呑みを俺に手渡す。煎茶の熱い湯気が湯呑みから立ち上り、鼻先を熱した。
「あっ、ありがとうございます。いろいろと気を使っていただいて。本来、こちらが手土産でも持参すべきところを――」
火傷しないように気をつけながら、お茶を口の中へと流し込んだ。
「ん?」
独特な苦み? 酸味? 刺激?
味の寸評に思いを巡らせていると、徐々に胸が苦しくなってきた。呼吸が乱れ、視界が霞んでくる。体勢を崩した俺は、小ぶりな椅子から滑り落ち、床に倒れ込んだ。
遠のく意識の中、老婆の悲鳴が聞こえる。そして続く椎名の声。
「まぁ、安心なさい」
「でも、この方の具合が――」
「大丈夫。毒を盛っただけだよ」
「毒?」
「そう」
「あなたが?」
「もちろん」
「どうして?」
「彼を殺すためだよ」
「まぁ……なんということを」
俺はフリーライターという職業にプライドを持っている。職業上、時に安全が脅かされることだってある。命が狙われる危険すらあるのがこの仕事。ただ、椎名は俺が狙った獲物だ。これほどまでに興味深い取材対象。その言葉、一言一句聞き逃すまい。
視界が覚束なくなっていくのとは対象的に、聴覚だけがその意志を保ち、椎名の声を捉え続けていた。
「ワシはお前に、人生の山場をプレゼントしたいと、ずっと考えてきたんだよ。その願いがようやく叶った。今日からワシらは立派な犯罪者。晩年からこんな刺激ある人生を歩めるなんて、そんな山場は滅多とあったもんじゃない。
ワシはその昔、サスペンス作家を目指していた時期があってだなぁ。こんな山場を迎えられたら、どれだけ愉快かと夢想したものだ。山場師である君ならわかってくれるだろう?」
「ずいぶんとステキなことじゃない」
弾むような椎名の妻の声。彼に恋い焦がれる視線が思い浮かぶ。俺は、二人の人生の山場になれたことを、心から誇りに思う。
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