1.夫

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 窓を叩く雨音が次第に激しくなっていく。 「止まないわね……」  隣に立って外を見る妻が不安そうに呟いた。 「ああ、山の天気は変わりやすいってのは本当なんだな。昼間はあんなに晴れていたのに」 「そうね。せっかくの旅行なのに」  今日、俺は妻と二人で山奥にある温泉旅館を訪れていた。前々から行きたいと妻に言われていた宿だ。今さら妻と二人で旅行なんてとも思ったが、定年を迎え暇を持て余していた俺は渋々同意した。子供もとうに独立しておりこれからは妻との二人暮らし。そう思うと少しうんざりする。定年を迎えた世の男性は皆、少なからずこんな思いをするのではなかろうか。 「まぁ温泉には入れるしここは食事も評判いいんだろ? ならいいじゃないか」 「そうね。じゃあお食事までまだ時間があるから、ちょっとお湯に浸かってくるとするわ」  妻はそう言って部屋から出て行った。 「やれやれ……」  やっぱり妻と二人きりというのは何とも気詰まりだ。二人でまともに会話したのなんてもう何十年前だろう。俺は少しホッとした気分で鞄からスマホを取り出した。 「あ、やっぱり来てるか」  メッセージアプリを開くと案の定、佳奈からいくつかメッセージが届いている。急いで返信をして履歴を削除してスマホを閉じた。 「念のため、と」  佳奈というのは俺の浮気相手。体の関係になってからそろそろ一年経つ。年老いた妻と違い佳奈の若い体に俺は夢中だった。お互い家庭のある身。絶対バレないよう細心の注意を払って付き合いを続けている。まぁ妻は俺にそんな相手がいるなんて思ってもいないだろう。ただのくたびれた中年男性……いや、もう老人だと思っているに違いない。妻とは子供が産まれてすぐレスになり、以来ずっと体の関係はなかった。心はとっくに離れている。変わりやすいのは山の天気だけじゃない、人の心もそんなもんだ。いっそ妻と別れて加奈と、と最近は思い始めている。だがそうするにはいくつか障害があった。どうしたらうまく妻を捨て、佳奈と一緒になれるだろう。いろいろと計略を巡らすうち、ウトウトしていたらしい。ハッとして時計を見るとそろそろ食事の時間だ。 「ん……遅いな」  妻が戻ってこない。そろそろ食事の時間だというのに。俺は少し苛々しながら妻を待った。だが食事の時間が過ぎても妻は現れない。しびれを切らして宿の中を探してみることにした。 「あの……妻が風呂に行ってから戻ってこなくて。まさか風呂で倒れているんじゃないかと……」  宿の従業員をつかまえてそう尋ねてみる。 「あら! ちょっと女湯を見て参りますね!」  年嵩の女性従業員はそう言ってパタパタと走り去っていく。だがほどなくして戻ってくると「今はどなたもいらっしゃいませんでしたよ」とホッとした表情を浮かべた。 「そうでしたか……。どこ行っちゃったんだろう」 「ひょっとしたら入れ違いでお部屋にお戻りでは?」  そう言われ部屋に戻るもやはり妻の姿はない。何だか段々と腹が立ってきた俺はひとりで食事会場へと向かった。もう知るもんかと思いつつひとりで食事をつつく。追加で頼んだビールを何杯か飲み干すと、何だかどうでもよくなってきた。こんなことなら佳奈と一緒に来ればよかった、そんなことを考える。食事を終え部屋に戻っても妻の姿はない。俺はせっかくだからと温泉を堪能し、部屋で妻の帰りを待つうちに眠ってしまった。 「……さん、起きてください。大変です」  深夜、体を揺すられて目を覚ますとそこには宿の従業員らしき男性の姿。薄暗く、顔はよく見えない。 「ん、何なんですか? 人の部屋に勝手に入ってきて」  目を擦りながら抗議すると男はとんでもないことを言い出した。 「奥様が、山中で見つかったんです! すぐに一緒に来てください」  男の言葉にハッとして体を起こす。 「ど、どういうことだ。妻は……妻は無事なんですかっ?!」  思わず大声を出す俺に男は「すみません、深夜なのでお静かに。すぐご案内します」と告げ立ち上がる。俺は慌てて浴衣のまま部屋を飛び出した。正直言って妻が心配だという思いよりも、腹立ちの方が大きかった。何やってんだ、アイツ。あぁ、はやく佳奈が抱きたいな。そんなことを考えながら押し付けられた雨ガッパを手に、こちらを振り向きもしない従業員の背中を追いかけた。
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