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「ねえ、知ってる?」とわたしが問うと、
「知らない」とユミ。
「そういう返答はどうかと」と抗弁をわたしは試みる。
「だって何を知ってるか知らないうちは果てしなく知らないもんねー。ね、ユミ」あいだにミキが割って入る。
「そう、それ。ユキが何をいうかも分からないうちはだね、量子力学的に」とユミ。
「はいはい、何たらの猫なんでしょ、ああやだ。やだやだ。理系はこれだから情緒とか人情ってもんが、ね。ユミもだけどミキも相当だよ」
「ん、でもミキちゃん的には『ユ』の字が出た時点でそれがユミなのかユキなのか分かるよ、一応」そういうミキはこれでもお姉さんだ。単純に一浪しただけなんだけど、お姉さん扱い。
「自分の名前をちゃんづけで呼ぶなよ、このエスパー」と今度はユミがつっこむ。
「令和の理系がエスパーとかいうなよ。なんだってこんな子たちの面倒見てるんだか。あたしゃ悲しいよ」と大仰なしぐさで令和の理系、ミキお姉様。
「ハァなんだかオラこんな女子寮出ていきたくなっただ」といいながらわたしはコーラの最後の一滴を飲み干す。
ゴミ箱の中身は少ない。だいたいの寮生が出払っているからだろうか。わたしたちはまだ一回生で、この寮に来てまだ二か月も経っていないのだ。けど、この三人は性格も学科もぜんぜん違うのに自然とつるんでいることが多い。
時刻は二時、真っ昼間。わたしたちのいるデイルームのテレビは昔のドラマの再放送が消音で流され、三人はといえばそれぞれのスマホにかかりきりだ。
——情報が古く更新されていない、それはすなわち悪である。ここにシス工の子を連れてこればやれ脆弱性がどうのといわれるのは目に見えていた。
たしかに安室さんや深キョンさんや安達祐実さんたちが今から巻き返せるとは思えない。だからといってテレビの中の彼女らは美人であり目の保養と賑やかしには悪くはない、とわたしはおっさんのような弁論を脳内で繰り広げる。ああ、暇だ。
つまり、連休真っ只中で帰省もしない連中はこうして寮で堕落するほかないのだよ。
「なんで『百合寮』なんかね?」とミキお姉様。
「だってあれでしょ? 『百合族』の公開がそもそも六〇年代だか七〇年代だかで、寮建てたのもっと昔だし、情報が古かったし、そもそもうちら関係ないし」えらく真っ当なユミさん。ユミ、君のどんな話題も拾ってくれるそういうやさしいところがわたしは好きだよ。
「まああたしはいいんだけどさ、人それぞれで」ミキお姉様は自分の投げた話題に早くも飽きているご様子。おい、せっかくユミが拾ったのに、このド天然お姉様はちょっとひどいんじゃないか?
三人ともスマホをローテーブルに放る。暇すぎて勉強にも手がつかない。彼氏が生えてくる種とかホームセンターで売ってないかな。特に十二月が収穫時期の品種をわたしは希望する。
「ねえ、ミキのそれって」ユミがミキを横から眺める。しかし今のユミは裸眼なので思いっきりにらんでいるようにもみえる。「人工ダイヤ?」
「ん? ピアス? それともこの瞳?」ミキお姉様は、“おれが本気で振り向けばこんなにかわいいんだぜ?”とでもいわんばかりの笑顔をユミにくれる。
「どうやって開けたの?」とユミ。理学部よ、ああ頼むからすこしは訊く以外にも自分で考えたり調べたりの行動はないのかえ? はあ、あたしゃ悲しいよ。
「キュービックジルコニアってやつか」
「ユキちゃんせいかーい。なんで知ってるの?」
「まあ、一応これでも女子なんで」
「え、もらったこととかあるの?」や、やめなさいユミ、そういう話の持っていき方をする子に育てた覚えはないよ。
「な、ないけど、知識として」
「でも、残念だったな」とミキさん。
「え、なんで」とユミ。
「これね、ふふ、イミテじゃないの。お母さんの形見なんだ。本物。お父さんからの銀婚式のプレゼントをリフォームしたやつ。ふたりとももう天国に行っちゃったけど、お母さんの指輪をわたしがするのはおかしいから。でもしまっておくだけってのもいやで、ピアスにしちゃった」
「じゃっ、じゃあこれ本物の、ダイヤ?」
「片っぽだけだけどね、今買えば五万以上はするよー。〇・五カラットくらいかな? 台もプラチナにしたし。初めてだったけど、痛くなかったよ」
話しながらもだんだん笑みが薄れゆく。いい切らぬうちにミキお姉様は髪を下ろし、テレビの中で音もたてずに泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだりする不自然な人々を観るともなしに観て黙った。
「ほわあ。連休中の風呂、シャワーだけっての聞いた?」大あくびをしながらわたしは問う。「いつでも入れるんだけど、湯船がないのはさみしいねえ」スマホを手に取り、「わたし、ちょっとシャワー浴びてくるわ。暇でしょうがない」と席を立つ。
――どうするべきだったのだろう。連れシャワーにでも誘えばよかったか。だが十八、十九で両親ともに他界したミキの気持ちをわたしは理解することはできないだろうな、そうした不甲斐なさ――とも違う、なんというか、埋めようのない溝をわたしの力で踏み越えるのはどだい無理な気がした。
場の流れとはいえ、ミキは母親の形見を人に披歴した。
デイルームからタオルや洗面器を取りに部屋に戻るときも、ミキはまだテレビなのか窓の外なのか、どこか分からない一点を見つめていた。ユミはあれでうまく立ち回れる子だし、それもあってわたしは熱湯のようなシャワーに打たれることに専念できた。でもなんだかんだいって、あの場で一番うまく対応できたのは、ミキだったのだといまでは分かる。
一年半ほどしてわたしはファーストピアスを皮膚科で開けた。痛みは怖くはなかったが、金アレはいやだった。医療用ステンレスの専用品でしばらく過ごし、のちに四月生まれなのでキュービックジルコニアの品を買った。両耳に着けた。
髪も下ろした。
ミキがどのような反応をするのか、怖かったのだ。できるだけ見えづらいようにし、夏場はたしかに暑かったがミキの前では下ろすようにした。
「そんなに気にすることないじゃん、ミキも四月の誕生石くらい知ってるって。むしろ遠慮ばっかりしてると不自然だよ?」ユミは、そういってくれた。
ミキはわたしの前で笑うことが少なくなった。
勘づいていたのかもしれないし、人づてに聞いたのかもしれない。
三回生に及第するころからわたしたち三人はだんだんと距離がひらいた。ユミは理化学実験棟にこもるようになり、わたしもゼミで刑事訴訟法を中心に手広く勉強を深めた。ミキも演習や大学病院での実習が増え、生活も気持ちも少しずつ離れていった。
何のことはない、学生なら当然だ。
そのうち一緒にお酒でも飲めるに違いない。そうだ、そうなのだ。
だからこの一双のピアスも、着けようが外そうが関係のないことなのだ。
三回生の秋、専門書を買いに少し華やいだ区画までバスで移動した。むろん大学の近くでも法学書の専門店はあった。買い物ついでに映画でも観て、ちょっと気分転換をしたかったのだ。この橋を渡ると県庁所在地である中央区。
橋に近づく、そう意識すると一度、どん、と拍動が胸を打った気がした。発作的にボタンを押す。
運転手に詫びながらICカードを押し当て、急いで降りる。息がしづらい。歩きながら両耳のピアスを外す。手が震えてうまくいかない。橋のふもとで立ち止まり、唇をゆがめ、無理やり千切ってやろうかと思いつつも両耳のキュービックジルコニアのピアスを外す。右手に握りしめ、次第に強まる吐き気をうっとうしく感じながら河の真ん中付近へ歩を進めることができた。欄干を左手でつかむ。一度後ろへ反動をつける。一双のピアスを宙へ放る。
一瞬、空中にきらりと瞬いたかと思ったが、分からない。
本当は落ちてすらいないのかもしれない。
だが、少なくともピアスはもう、手を離れた。
「う、うう」なんだよ、なんなんだよ。「ああ、あああ——」自分で好きで開けて、「くそ、くそが――」ちょっと気に入ってたのに「わたしはあ!」
わたしは——
ミキのピアスが、とても羨ましかったのだ。
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