マリオネット

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 からん、と軽く硬質な音がしてマリオネットはテーブルに崩折れた。こんな子ども騙しの芸で生活はできない。疲れのためか、マリオネットを操るうえでの必要のためか、猫背気味の中年の女は裁縫箱から裁ち鋏を取り出す。マリオネットの糸を鋏でしゃくしゃくと切ってゆく。さあ、これであんたも自由だよ。あたしも、明日の晩には、明日の晩には――。  明日の晩には? 働き口を見つける? それとも致死量の毒の調達? 女が向こうの部屋へ消えたあと、マリオネットは考えた。考えて、ぞんざいに投げ出された肢体の混沌を正す。まずは立とう。床からの起立は、人間の全ての動作のうちでもっとも大きな膂力を要す運動だ。ボディメカニクスを最大限に駆使し、糸の支配下――庇護下にないマリオネットは自力で立ち上がる。魔法でも、呪いでもない力がマリオネットにはあったからだ。  自然で流麗、無駄のない動き。  マリオネットは自らの動きの全てを、あの女芸師に糸伝いに教わった。実際、マリオネットは(やろうと思えば)芸師の女の力がなくてもどんな動きだってやってのける自信があった。膝の屈伸を例にとる。膝は螺旋関節だが、機能的には蝶番関節に近い。その膝関節を(自発的であれどうであれ)、屈伸運動でもいいが、とにかく同じ動きを幾度となく繰り返していると、膝関節は自然と可動域や巧緻性が向上し、力強い、思うままの運動ができるようになるのだ。理学療法の領域でも促通反復運動として確立された理論で、マリオネットは女芸師によって、これまでずっとその運動をしていたということになるのだ。  夜。  マリオネットは芸師の眠るベッドへ向かう。ほら、見て! あなたのおかげで、糸もなんにもなくたってこんなに上手に動けるんですよ! マリオネットは自身に、声帯も肺も、横隔膜もついていないことが悔やまれた。仕方なしにとはいえ、芸師からの最大の賜物であるダンスで謝意を表すことにした。芸師に糸をつけてもらった状態で練習を重ね、深夜にもひとり、関節の曲げ伸ばしや各挙動の精度を向上させる練習をし、今やだれの助けも借りずにダンスを披露できるのだ。  ね、先生? あなたのおかげでわたしはもう、文字通り独り立ちができるんです! 2301  マリオネットを専門とする大道芸師の女性から、糸の切れたマリオネットがナイトテーブルのあたりにて動いていると通報。薬物か、それに準ずる精神の錯乱を疑う。 2310  該女性の隣の部屋に住む男性より、隣で気の触れたような叫び声と大きな物音がしているとの通報。該女性の精神失調が濃厚となる。自傷他害の虞(おそれ)あるとして精神科救急の緊急出動を要請。 2324  警邏(けいら)中の制服警官が駆けつけたところ、該女性はマリオネットを金槌で粉々に叩き壊していた。落ち着くよう声をかけ、マリオネット(だったもの)は見えないところに隠し、興奮がおさまるのを待つ。 0012  搬送された精神科救急病院における該女性の容態だが、救急車の車中にいる時点ですでに落ち着きを取り戻し、疎通性にも問題はなかった。該女性が人形を粉々にしていた女性と同一人物なのか、制服警官でさえ苦慮することもあり、また、当直医の診察、緊急検尿結果からも、急性の精神失調、および薬物の所見もなかった。該病院を一泊ののち、入院加療の必要なしとし、退院。  なお、今夜より該女性自身の結婚式が控えているので、十全なる配慮をごく一部関係者に要請。また、マリオネットがひとりでに動いた、という点について医師が該女性に尋ねると、「ああ、そんなこともあったかもしれませんし、なかったかもしれません。どのみち、わたしにはあまり関係のないことなんですよ」といい、婚約指輪を愛おしく眺めた、とのことであった。  以上にて該事案を終結とする。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加