世界が色づく小さな勇気

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裕太を保育園に預けた後、朝にお茶できないかと、浩美は沢田に打診した。「もちろん、オッケーです!」と浩美のLINEだけを待ち構えていたように、素早い返信があった。 約束のカフェに着くと、天然パーマの頭が目立つ沢田の前には、既に分厚いパンケーキとカフェオレが置いてあった。朝ごはんをほとんど食べない浩美の目にも美味しそうに見える。 「同じもの、浩美さんも食べますか?」 「パンケーキ、もう少し薄いものがあれば」 「勿論ありますよ!あの、すみません。パンケーキセット、飲み物はカフェオレで。あ、パンケーキは普通で」 沢田がよく通る声で店員に注文を入れる。誰かとこうやってお茶をするのはいつぶりだろうかと懐かしい気持ちになる。自分の口角がほんの少し上がったような気がした。 「浩美さんの方から誘ってくれたのがもう、嬉しくて嬉しくて」と裕太はカフェオレを勢いよく吸い込みながら言う。分厚いパンケーキを食べるスピードは思ったよりもゆっくりだ。 「今まで、無下に断ってばかりで、ごめんなさい」 「何言ってるんですか。そもそも浩美さんに応じる義務なんて無いですから。今の時代、こんなに何回も誘ってたらセクハラになっちゃうんじゃないかって俺の方も最近はちょっとビビってるところもあって、最近は声かけるの、ためらってました」 沢田は浩美より二つ年下だ。大学を出て、そのまま市役所に新卒で入社した。沢田は隣の市の出身だったが、少しは地元を離れたいというささやかな抵抗として、今の市役所に勤めているのだという。あまりにもささやか過ぎる抵抗を可笑しく感じて、浩美が笑うと沢田は歯を見せて嬉しそうに笑った。 浩美は勤めていた銀行の一般職を辞めて、市役所に転職した。浩美は家賃の安さと子育てのしやすさの評判だけで、今の仕事を選んだ。自分の夫が死んだ経緯も全て知られている職場で働き続けることが辛くなってしまったのだと、浩美は正直に打ち明けた。話を聞いている途中から沢田の目には涙が浮かんでいるのを意識しながら、浩美も息継ぎをしたら涙が溢れてきてしまいそうで、一息に話し切った。 「浩美さん。それにしてもすごいな、そんな思いを抱えながら仕事を完璧にこなしてて。俺なんか、なんでもクヨクヨ引きずって考えちゃうから、何も集中できなくなって仕事クビになっちゃうと思います」 「逆かな。仕事が忙しくて余裕がないとね、悲しくなる暇がなくて、少し気持ちが楽になるんだよ。良いんだか悪いんだか、分からないんだけど」 沢田は職場のことについて、色々と話してくれた。浩美にとって、その内面をほとんど知らない同僚の性格の話や、噂話は意外にも興味深かった。浩美は、自分の周りに広がっている世界が白黒なのではなく、自分の心が世界を白黒にしか受け取れていなかったのだと、改めて気づいた。 次第に、こんなに自分を楽しませてくれる人の誘いを無下に断り続けてきたのだという事を浩美は後悔し始めていた。 前に踏み出そうとしないことは、傷つかない代わりに、人生で価値のあるものに出会う機会も確実に奪っていくのだ、と思う。そして、世界は次第に色を失っていく。 出勤時間が近づいてきたことに気づいて、二人揃って店を出る準備をする。 「あの、今度、子どもと初めて山登りをしようと思っていて、よければ沢田くんも一緒にどう?」浩美は、自然に口から出た自分の言葉に驚いた。 お茶をしただけの相手に山登りを打診する自分が、ひどく異性との関係構築に不器用な人間に思えて、言ってから恥ずかしくなっていた。いくらなんでも話が急すぎる。 顔を上げると、沢田は案の定、少し驚いたような顔をしていたが「ぜひ、是非お願いします!」と何一つ茶化すことなく、二つ返事で答えた。 浩美はその声を聞いた時、長く感じていなかった、心地よい風が自分の身体を下から上に涼やかに通り過ぎていくような高揚感を感じた。 二人でカフェを出る。カランコロンと昔ながらのベルが鳴った。 見上げた青空は大きく、どこまでも広がっていた。
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