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 ということで、リョータに協力することになってしまった。放課後にリョータと会ってほしいと彼女に頼むなら、昼休みのうちがいいだろう。今日もそうだけど彼女はたいてい昼休みに教室にいない。でも雨の日だけは教室にいる。つまりお昼ごはんを外で食べているということだ。  校舎の屋上だろうと予想して、まずそこから探しに行ってみることにした。いなければ次は校舎の外をぐるっと回ってみるつもり。そうなると面倒だから屋上にいてくれよという願いが通じたか、彼女は校舎の屋上のフェンスの前の段差に腰掛けて一人で弁当箱のごはんを食べていた。まだ五月なのに屋上に降り注ぐ日差しは強烈だった。暑くないのだろうかと一瞬心配になったが、さっさと用件を済ませようと気持ちを切り替えた。  僕が話しかける前に、彼女が僕の姿に気づいてすっと立ち上がった。  「何の用だ!」  質問というより威嚇するような鋭い大声だった。不審者だと思われてる? 隣の席なのに顔も覚えられてないのだろうか?  「怪しい者じゃないよ。僕は君と同じクラスで隣の席の大中寺夏梅だよ」  「そんなことは分かってる」  「分かってるなら、いきなりそんな喧嘩腰にならなくても……」  「は? 隣の席になってからずっと私を無視してたのはおまえの方だろ? 私がおまえに何かしたか? あるなら言ってみろ!」  避けていたのが思い切りバレていた。それについては確かに彼女に非はない。謝った方がよさそうだ。  「無視してたわけじゃないんだ。ただ……」  「ただ、なんだ?」  「君を傷つけるつもりはなかった。本当にごめんなさい」  親のかたきを見るような目でにらみつけられていたが、謝って頭を下げてもそれは変わらなかった。でもそのとき僕は、美人は怒っても美人なんだなと彼女に知られたら火に油を注ぐようなことを考えていた。  「私は謝れと言ったんじゃない。無視していた理由を答えろと言ってるんだ」  「と、とりあえずそっちに行くね」  離れた場所にいるから大きな声を出されるのかと思って彼女の目の前に移動したが無関係だった。  「それで無視した理由はなんだ? 私は嘘は嫌いだ! 適当に言い逃れしようとは思うなよ!」  目の前に来たのに声量は元のまま。耳を塞ぎたくなるくらい。自分の感情をコントロールできなくなっているようだ。これもメンヘラだからなのだろうか?  「去年の夏頃、先輩たちが君の噂をしていたのを聞いて……」  「噂? どんな?」  メンヘラの君をセフレにして、あわよくば仲間同士で共有のセフレにしようと話していた、なんて本人の前で言えるわけない。  「それはちょっと……」  「言いづらいことなのか? もしかして噂していた先輩というのは今年三年になったカツラギリクか?」  「噂話の中にリクという名前が出てきたから、二人ともリクという人の仲間なのだと思う」  「そうか……」  彼女の声が急に弱々しくなった。  「つまり、リクの仲間たちが私を侮辱しているのを聞いて、おまえも私を軽蔑するようになって、それで私と口を聞きたくなかった、ということだな」  誰よりも気品のある顔立ちをしているから、おまえという呼び方に違和感がありすぎる。でも今はそんなことを気にしている場合ではないようだ。  「僕は君を軽蔑なんて……」  「軽蔑してないというのか? 噓つけ! じゃあ、リクの仲間が私のことをなんて噂していたか言ってみろ!」  「き、君がリクという女たらしの先輩に秒速で……」  経験済みにされるに違いない、と噂していたよと話をつなげることはできなかった。もし違ったら失礼だし、その通りだったとしてもただでは済まない雰囲気だったからだ。それに対する彼女の反応は僕のためらいをあざ笑うかのような直接的なものだった。  「その噂は正しい。私はカツラギリクというチャラ男に甘い言葉をかけられてすぐに貫通済みにされてしまった」  男の僕でさえ〈経験済み〉という言葉を口にする勇気がなかったのに、美女の口からもっとずっと露骨な〈貫通済み〉という言葉が出てきて、僕の方がかえって赤面してしまった。そしてやっぱり彼女の貞操は無事ではなかったんだなと飼っていた猫が死んだときのような喪失感にも襲われていた。  「それでおまえが私を軽蔑していたというなら仕方ない。だっておまえが私を嫌っている以上に、私自身が私自身を軽蔑し嫌悪しているのだから。なぜあんな女たらしの言いなりになって簡単に貫通させられてしまったのか? 思い出すたびに死にたくなる」  「つらい気持ちは分かるけど、死ぬほどのことじゃないと思う。次は君を大切にしてくれる真面目な人と交際すればいいんだよ」  同じクラスのリョータが君とつきあいたいと言ってるよ。リョータなら君を幸せにしてくれるよ。  そう言いたかったが、僕と同じくパンピーでしかないリョータがメンヘラの彼女を幸せにできるイメージが持てなかったので黙っていた。  「おまえは童貞か?」  「そうだけど」  「だろうな」  なぜか鼻で笑われた。  「チャラ男相手に処女を捨ててさんざん性欲処理の道具として使われて、それで飽きたらあっさりと捨てられた。しかもそのことを言い触らされた。おまえみたいな陰キャの童貞でも知ってるくらいだから、校内でそれを知らない生徒はほとんどいないんじゃないか? もうまともな男はこんな汚れた女を恋人にしようなんて思ってくれない。せいぜいリクのような遊び人が遊び相手としてちょうどいいと近づいてくるくらいだろう。死ぬほどのことじゃない? 次は真面目な相手と交際すればいい? 見え透いた気休めを言うな! じゃあ、おまえはそんな私と交際できるのか? できないだろう? だからやっぱり私は死ぬしかない」  彼女がガシガシとフェンスを登り始めた。フェンスの向こうはただの虚空。ここは五階建ての校舎の屋上。飛び降りれば間違いなく死ぬだろう。  「待って! 死んじゃダメだよ。冷静になろう」  ここで死なれると僕が彼女に何かしたんじゃないかと疑われるに違いない。死ぬなら僕ではなく、君を傷つけたリクという男の前で死んでほしい。なんならリクを道連れにしてもいいから。とにかく今は困る。彼女を止めるために僕もフェンスを登った。  フェンスの向こうは人一人分立てるほどの幅しかない。彼女はそこに立ち、黙って大きな空を見渡していた。  僕もそこに降り立ち、彼女の腕をつかんだ。一瞬下を見てしまって、恐怖で頭がクラクラした。グラウンドで昼練している運動部の部員たちが豆粒くらいにしか見えない。校舎の前はコンクリート。運よく植え込みのある場所に落下できたとしても、それで助かるとも思えなかった。  「どうした? 顔が青いぞ」  「そりゃ、怖いから……」  「心配するな。飛び降り自殺は落下してる途中で気を失うそうだ。だから痛みを感じることはない」  「心配するなって、なんで僕まで死ぬみたいに……」  「当たり前だ。私が死にたくなったのは男のせいだ。おまえが責任取っていっしょに飛び降りてくれ」  「……………………!」  そんな連帯責任は聞いたことがない。だいたい僕はまだ死にたくない。彼女と違って僕はまだ恋もしたことがない。死んでも死にきれないとはこのことだ。  「冗談じゃない。助けようと思ったけど、そんな無茶苦茶言われて助ける気がなくなった。死にたければ死ねばいい。僕は教室に戻るよ」  またフェンスをよじ登っていこうと彼女に背中を向けた途端、すごい力でフェンスから体を引き剥がされた。知らない男が突然乱入してきたのかと一瞬思ったくらいの強い力だった。もちろんそんなわけはなく、僕をフェンスから引っ剥がしたのは彼女だった。  「危ないだろう。落ちたらどうするんだ?」  「だから一緒に死のうと言ってるじゃないか」  「まだそんなこと言ってるの?」  ふたたびつかみかかってきた彼女の腕を払おうとして、誤って彼女の胸の辺りに手が当たってしまった。  「生死がかかった場面でも、男という生き物は性欲を忘れられないものなのか」  「ごめん。今のは事故で……」  「隙あり!」  彼女は僕の右手をつかむなり、僕の体を躊躇なく屋上から突き落とした。  「ああっ」  情けない声をあげる以外、一瞬の出来事でどうしようもなかった。右手だけ彼女につかまれて、僕の体全体が屋上からぶら下がっている。彼女は片手で僕の体が落ちないように支え、もう片手でフェンスの金網を握りしめている。  左手でも彼女の腕をつかんだが、そんなのは気休めにすぎず、彼女が本気で手を振りほどけば僕の体は落下して硬いコンクリートに叩きつけられるほかない。  「僕の手を絶対離さないで!」  「大丈夫。おまえの手は離さない」  そう言われてホッとした僕はまだ彼女の狂気を理解していなかった。  「離すのはフェンスをつかんでる方の手だ。約束通りいっしょにいこうぜ」  〈いこうぜ〉というのは漢字で書けば〈逝こうぜ〉なのだろう。僕の生殺与奪の権利はすべて目の前のメンヘラ女に握られていた。真下の地面を見下ろして、白いコンクリが凶器にしか見えず、僕は絶望のあまり少し気が遠くなった。  「おしっこ漏らしたぞ。高校生にもなってお漏らしか」  と彼女に笑われたがもう反論する気力もなかった。  「恥ずかしい秘密を持つ者同士。これでおまえと私は対等の立場になったな」  そんなわけあるかと思ったが、下手に反論して手を放されたら困るから黙っているしかない――  そのとき屋上のドアが乱暴に開けられた。口々に僕らの名前を叫んでいる。屋上からぶら下がっているから屋上の様子を目で見ることはできないが、屋上から誰かが落ちそうになっていると生徒から聞いて、先生たちが助けに来てくれたようだ。  助かったと思った。だから彼女と先生の会話を聞いて、さらに絶望の底まで突き落とされた。  「先生、そこで止まって! それ以上近づいたら手を振りほどいて自殺すると言ってます!」  「分かった! 霊山寺、大変だがなんとか説得してくれ!」  「大丈夫です! 知り合いに心を病んでる人がいて接し方は分かっています!」  「それは心強い! 霊山寺、なんとか大中寺の命を救ってやってくれ!」  心を病んでる知り合いって自分のことじゃないか。自分自身も知り合いであることに違いないから、確かにそれについては嘘を言っていない。でもそれ以外は全部嘘だ。近づいたら自殺すると僕が言ってる? 自殺しようとしていたのは彼女の方じゃないか。さっき〈私は嘘は嫌いだ〉と言ってたくせに。嘘をつかれるのは嫌だけど、自分が嘘をつくのはいいのか?  それらはすべて心の中の声。僕の生死が彼女のお気持ち次第という極限状況で、それを口にする勇気はない。  「おまえ大中寺という名字なのか。うちと同じで先祖がお寺さんだったのだろうな」  呑気に世間話を始めた彼女に本気で殺意を覚えた。それはそうと、席が隣なのに今まで僕の名前を知らなかったようだ。僕の名前さえ知らなかったメンヘラ女に僕は命を奪われようとしているんだなとさらに僕の心は脱力感でいっぱいになった。本当に脱力して手が彼女から離れてしまえば死んでしまうから、脱力したのはあくまで心の中だけの話だけれど。  「先生に褒めてもらえた。生きていてもいいことなんかなんにもないと思っていたが、たまにはいいこともあるんだな」  「そりゃよかったね」  「なあ、大中寺。これから私が言うことにおまえがイエスと言ってくれるなら、私は死ぬのをやめようと思う」  彼女が死ぬのをやめるというなら、つまり僕の命も助かるということだ。願ってもない申し出。何を言われてもイエスと答えようと僕は今か今かと彼女の次の言葉を待った。でも彼女は急に黙り込んでなかなか口を開かない。  「早く言って! 僕もそうだけど、君もそろそろ限界なんじゃないの?」  「気遣ってくれてありがとう。おまえ、意外にいいやつだな」  君を心配したんじゃない。君が手を離せば僕が死ぬことになるのが嫌なだけだ!  「男に騙されてセフレみたいな扱いをされたから、私は人生に絶望して死にたいと思うようになった。それはつまりちゃんとした恋愛ができれば私はまた人生をやり直せるということだろう。大中寺、私の恋人になってくれないか? セックスが目的ではない、本当の愛を私に教えてくれ」  「ええっ」  なるべく彼女を刺激しないようにとなるべく丁寧に接してきたのが紳士的だと好印象を与えたらしい。恋人になってほしいと言われれば普通はうれしいだろう。でも彼女はただメンヘラなだけでなく、僕を巻き添えに自殺しようとした狂人。この件が済めばもう二度と顔も見たくない存在。恋人? ありえない!  「いやか」  「さすがにちょっと……」  「分かった。予定通りいっしょに死のう」  「ひいいいい……」  彼女がフェンスから手を離そうとする仕草を見せて、思わず変な声が出てしまった。  「待って! 落ちついて!」  「私は落ちついている。少なくとも大中寺のご両親に申し訳ないと思うくらいには」  「僕の両親に申し訳ないと思うなら、僕を死なせないで!」  「そう思うなら私の提案に乗ればいい。私たちがこのまま死ねば、自殺に私を巻き込んだということで、君の両親は私の両親に対しておそらく何千万という賠償金まで払わなければならなくなる。若くして子どもに死なれるだけでも親不孝なのに、その上賠償金まで。気の毒だと思わないのか?」  そうか。このまま僕らが二人とも死ねば、状況的に僕が無関係の彼女を巻き込んだことになるのか。行くも地獄、退くも地獄。どちらを選んでも地獄なら、あの世で死んだことを後悔するより生き地獄を選ぶほかないだろう。  「決めたよ。僕は君の恋人になる」  「口だけじゃダメだぞ! 心から私を愛せるのか?」  「全力で君だけを愛すると誓うよ」  「信じていいんだな? 裏切ったらおまえを殺して私も死ぬ!」  「絶対に裏切らない」  「気に入った!」  どこにそんな力がまだ残っていたのか、彼女は片手だけで僕を引っ張り上げて、屋上に放り投げた。途端に屋上からも校舎の中からも校庭からも歓声が上がった。みんな今まで固唾をのんで僕らの様子を見守っていたらしい。  とにかく助かった。でもまだ胸がバクバクいっているし、声を出すこともできない。僕はただ呆然とフェンスの外側の狭い場所で腰が抜けたように座り込んでいた。  すぐに先生たちが駆け寄ってきた。  「霊山寺、よくやった!」  「まだ生きたいという気持ちが彼に残っていただけです。私は何もしていません」  「どうやって説得したんだ?」  「私と交際することで死ぬことを思いとどまってくれるなら喜んで交際すると答えました」  よくこう次から次へと嘘を思いつくもんだ。呆れて何も言えずにいた僕の体を、アリの群れが大きな荷物を運ぶように先生たちがフェンスの内側に移動させた。そこには担架が用意してあって、僕は問答無用でそれに乗せられた。  「先生、僕……」  「何も言わなくていいよ! 大丈夫! 誰も大中寺君を責めたりしないから!」  そう答えたのは先生ではなく、もちろん彼女。僕と二人のときは僕の名前を呼び捨てにしてさんざん僕を脅すようなことを言っていたくせに、先生の前ではしれっといい人ぶることができるようだ。メンヘラというとコミュ障レベルで対人スキルの欠如した人という先入観があったが、もしかすると僕よりコミュニケーションスキルが高いかもしれない。  長い時間屋上からぶら下がっていて死と隣り合わせだったという極限状態だったことで、その極限状況から解放された今はひたすら眠い。  一方、彼女はちょっと前まで自殺しようとしていた人とは思えないようにハツラツと働いていた。今だって先生たちといっしょに僕の乗った担架を搬送している。眠くてよく聞き取れないが、僕を励ますような言葉をずっとかけてもいるようだ。  いろいろ納得できないことはあるが、とりあえず死なずに済んでよかったとしよう。僕は目を閉じて、そのまま睡魔に抗うことなく、担架の上で深い眠りに落ちた――
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