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 それからしばらく、その日のことが頭から離れなかった。噛まれた手首にはまだ傷がかすかに残っている。それをニットの袖で隠すが、そうすると今度は、思った以上にずっしりと重みのあった彼の身体の感触が蘇ってくる。俺はぞくりとする感覚を振り払うようにきつく目を閉じた。  のしかかられて初めて気付いた。俺が今までどれほど迂闊だったのかを。怖いと言いながらも、俺はあいつを舐めていた。所詮中学生の子供だと。けれどそれはとんだ間違いだった。  彼は俺なんかが太刀打ちできる相手ではなかった。彼は思ったよりもずっと男で、俺なんかよりもずっとこの現実を生きている。  自分の甘さが身に染みた。  手首の傷が疼いて、俺は彼に噛まれた時の感覚を無意識に反芻する。  それは嫌悪や怒りでしかないはずなのに、なぜか甘美な痛みをも俺の胸にもたらした。  次の金曜日、俺は川辺に行かなかった。どんなにあいつの頭の中が不条理にできていたとしても、さすがに察するだろう。  だがその翌日の土曜日、夕方からのバイトに行く前に、俺はあいつに捕まった。何か言いたげに俺の手首を掴んだその手を押しとどめて、俺は震え声で言った。 「頼むから、もう俺に構わないでくれ。俺はこれ以上何もしてやれないし、おまえにも会いたくないんだ」  まっすぐに俺を見ていた彼の表情が、わずかに崩れた気がした。  いや、気がした、なんて白々しい。俺が気付かないはずがないのだ。こいつは今、確かに傷ついた。俺の言葉に。俺の拒絶に。  今までだって、本当は気付いていた。こいつの些細な仕草に、視線に、短い言葉に、俺はこいつの気持ちを察していた。  けれどそれら全てから目を逸らし続けた。他人の厄介な感情ほど俺を疲れさせるものはないから。  結局俺も親父と大して変わらない、逃げ回って顔を背け続ける風見鶏だ。  彼はしばらく俺をじっと見つめ、それから目を逸らすと、フッと俺の腕を開放した。  何も言わず去ってゆく彼の背中を、俺は黙って見送る。放された手首から急速に熱が去っていく。  俺はそもそもどうして彼と一緒にいたのだったか。そう考えてあのくだらない目論見(もくろみ)のことを思い出した。確かにあいつといるうちに、俺は彼女を思い出すこともなくなっていた。改めて彼女とのことを思い起こしてみても、苦い記憶はほとんど薄れてしまっている。少なくとも当初の計画は成功したじゃないか。  そう考えて、俺は力なく笑う。  それで俺は楽になったのだろうか。何かから解放されたのだろうか。  苦い記憶と引き換えに、俺はもう、大きくて強引で、少しだけ優しい手の感触を憶えてしまった。  俯き、掴まれた手首を見つめて俺はハッとした。あいつが掴んだのが左手首だったことに気付き、俺は反射的にあいつが去った方を見た。けれどその姿はもう見えない。  あいつが掴むのはいつも俺の右手首だった。なぜならあいつは左利きだから。だけど今日は反対側の手首を掴んだ。それは多分、俺の傷が気になったからだ。  ふいに胸が疼いて、俺は左胸を押さえた。   ――だから、言葉が足りなすぎるんだよ、おまえは。  冬の空をあおいで俺は深く息を吸った。目を閉じて川の音に耳を澄ます。  俺はこの世界を生きたいのだろうか。  それともこの先も気付かないふりで逃げ続けたいのだろうか。  分からない。俺はもう何も分からなくなってしまった。  
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