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ミズタが誇らしげに語ったサークルの話は俺も何度も聞いて知っているのだが、かいつまんで説明するとこういうことだ。
引退した先代の代表がこのサークルを作ったきっかけは、「ゆるクレ」問題と呼ばれるものだった。
昨年、つまり俺たちが一年生の時、先代のヤナセ先輩も俺たちと同じ朝日寮に住んでいた。寮の一階にはサロンと呼ばれる八畳くらいの共有スペースがあり、そこには皆が持ち寄った漫画やゲームなどが置いてあるため、自然と暇な連中のたまり場になっている。
そこで昨年の夏、夕食後にヤナセ先輩とミズタとマツダ、そして俺が雑談をしていた時のことだ。
「なあ、まっつん、『ゆるクレ』読んだ?」とミズタがマツダに訊いた。
「あー、まだや、すまん。来週には返すわ」
「なんやそれ、『ゆるくれ』て」
マツダと同じく大阪出身の先輩が二人に訊いた。
「え、先輩知らないんすか。マジすか、今めっちゃ流行ってんのに」
「漫画のタイトルですわ。今度ドラマ化もされる言うてました」
「ゆるくれ? 知らんわー、ゆるふわ彼女とクレープ的な?」
俺も知らなかったが、まずそれではないだろうと思ったので笑った。
「先輩、タイトルセンスやばいっすよ!」
「ゆるふわ彼女とクレープて!」
ミズタたちは手を叩いて爆笑しながら口々に突っ込んだ。
ゆるクレの正式名称は『「許しのチカラ」という本でベストセラー作家になった親父が重度クレーマーだったと発覚した日の話』だ。
ミズタから聞いて俺はまた笑ってしまったが、先輩はこれに遺憾の意を示した。曰く「略語はいたずらに合理性を加速させ、怠惰と軽率を招く。また略語は図らずも符丁のごとき秘匿性を持ちうる。共有する者はそれにより親密さを深めうることは否定しないが、同時にある特権意識、平たく言えば排他性を生む危険性も多分に含んでいるのだ」
尤もらしい言葉を並べ立てているが、要は自分だけ知らなかったことが悔しいんだな、とその場にいた誰もが思ったはずだ。
そしてその一か月後、ヤナセ先輩の発案のもとNo Abbreviation Clubが発足し、現在は公認サークルとして活動している。部員は現在八名だそうだ。朝日寮ではミズタとマツダ、そして今マツダの隣に座ってニコニコと皆の話を聞いている唯一の一年生、コジマだ。
あとはこの春の新歓で、ミズタのスピーチに感銘を受けたという変わった一年生が三人、それとミズタのクラスの女子も二名加わったらしい。俺も誘われたがバイトがあり、イベントやミーティングに参加できないのを理由に断った。
サークルは和気あいあいとやっているようだが、代表はラテン系ミズタだ。サークルの自由奔放な活動により、初代の崇高なる理念はほとんど忘れ去られ、外部の連中にも揶揄された結果、アブ禁という「略称」で呼ばれるという皮肉なオチを迎えた。
だがミズタは、その不名誉な略称をも愛称と捉え、おおむねこのコンパでの「つかみ」のためにアブ禁を最大限活用している。
ちなみにマツダが言ったジャパンレイルウェイズとはもちろんJRの正式名称だ。
「僕の目下の趣味はTest of English for International Communicationを受けまくることで、」
「TOEICのことね」とマツダがすかさず女の子たちに説明する。
「直近のスコアはなんと880点!」
えー、すごーい! という女の子たちの歓声があがる。
「を目指してましたが、遅刻して入れませんでしたー!」
ミズタが両手を広げて弾けた笑顔で言うと、今度は、なにそれーという笑い声があがる。
ミズタは自分が疎まれないことを知っている、というか疎まれることを恐れない。ただその場が愉快でさえあれば満足なのだ。その言動に呆れながらも、俺はミズタをどこか羨ましくも思っている。
マツダはミズタの親友で、サークルでは会計を任されているらしい。経済学部の二年生で、チタンフレームの眼鏡をかけた、顔立ちも雰囲気もスマートな感じの男だ。ミズタが次々と楽しい計画を生み出し、それを受けて器用かつ効率的にプランを立てる。基本は合理的な人間だが、遊びの部分も持ちうる器用な性格と言える。
一年生のコジマは文学部で、小柄で丸い顔をしたまだ幼い感じの男だが、銭湯で寮内一の「持ちもの」を持っていることが発覚してからは、皆に一目置かれるようになった。基本的にいじられ役の優しく可愛い男だ。ミズタの「もうヘンタイした?」といういじりに「先輩、セクシュアルハラスメントですよ!」と毎回律義に返している。ちなみにヘンタイした? というおかしな台詞は「もうエッチしたか」という意味で、エッチがHENTAIの頭文字からとられた用語であることから来ているらしい。
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