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 あの日俺が声をかけた少年は、それから数日後にまた俺の前に現れた。制服姿でこの前と同じように橋の上に立っていた。俺を見つけるとまっすぐにこちらに向かって来たので、俺を待ち伏せていたのは明らかだった。  俺はそのブレのない強い視線に気圧されながら、少し歩調を緩めた。もしかしてあの日の礼でも言うつもりなのだろうか。  少年は俺の前に立つと、さっと左手を差し出した。握手かと思ったが、手のひらは上に向いている。 「え、なに」   少年は俺の右手首をいきなり掴み、背を向けた。 「いやいや、なんだよ。どういうこと?」  少年はめんどくさそうに振り返り、ひと言、来い、と言った。 「いや、俺これからバイトだから」  彼は俺の手首を掴んだまま、しばしジッと俺を見た。睨んだ、と言った方がいいかもしれない。俺は怖くなって掴まれた手を外すと、じゃあ、と言って小走りに駅に向かった。  なんだったのだろう――。  横浜方面に向かう快速に乗ってから、俺は窓の外を見た。いつもはすぐバッグにしまうパスケースを強く握りしめていることに気付く。手に嫌な汗をかいていた。  あいつは一体、俺をどこへ連れて行こうとしていたのだろうか。いや、そもそもなぜ俺を待ち伏せていたのだろう。  相手の意図が分からないために、俺の不安は余計に広がる。そして今更ながら、しまったと思った。あの日、あの橋の上にいる彼に声をかけ、川への飛び込みを思いとどまらせたということは、つまりその先の彼に対して責任を負うということに他ならないのではないか。  うかつだった。彼が俺にどんな感情を持っていようと、結局面倒なことになるだろう。面倒はごめんだ。絶対にごめんだ。  だが俺は実際、あの日自分からあいつに声をかけ、あいつと少しの時間を共有してしまった。あいつがどんな人間かも分からないのに。いや、明らかに年上だと分かる俺に向かって、いきなり「来い」なんて言うヤツはどう考えてもおかしい。   けれどあいつがおかしいってことは、あの日すでに俺は気付いていたはずだ。だったらそこで釘を刺すべきだったのだ。もうこれきりだと。   あの日、なんでもいいからとにかく言葉をかけなくてはと思って、その口から出てきたのは、「ラーメン食わねえ?」だった。なんとも間抜けなセリフだが、実際、俺はバイト明けで腹が減っていたのだ。   あいつは期待通りに橋の欄干から降りた。俺はひとまずほっとしたが、考えてみれば早朝だ。まだラーメン屋なんてやっていない。だから仕方なく駅の中にある立ち食いそば屋でそばを食べることにした。奢ろうとしたら凄い目で見られたので俺は急いで千円札を引っ込め、小銭で自分の分だけを払った。  あいつはがつがつと食った。さっきまで川に飛び込もうとしていた人間とは思えない、旺盛な食欲だった。俺は三百二十円のかけそばを食べながら、もしかしたらさっきのことは俺の勘違いだったのだろうかと思った。こいつはただ欄干とみると上ってみたくなる性分だっただけで、むしろ俺はその楽しみを早とちりで奪ってしまったのかもしれない。  箸を止めて彼を見ていると、またあの鋭い目で訝しげに見られた。俺は自分が間抜けになった気分で場の雰囲気をごまかすように言った。 「なんで駅の中にあるのって、そば屋なんだろな。ラーメン屋って見たことなくね?」  やつは口を動かしながら俺を見つめ、それからどんぶりを持ち上げてつゆを飲み始めた。  無視かよ!  俺だけが気まずい食事をしたあと、俺たちは駅を出た。  さっきの橋のそばまで来た時、突然犬が飛びついてきた。俺はなぜかやたらと犬に好かれる。俺も犬は嫌いじゃないので構わないのだが、飼い主でもないのに出会った瞬間「うれション」をされた時はさすがに驚いた。  今も飼い主のおばさんがコラッ、コラッ、と犬を引っ張りながら俺に謝ってくるが、犬はなかなか俺から離れようとしない。盛大に垂れ下がった眉毛と口ひげのせいで、仔犬なのにおじいさん犬に見える。しかし全身全霊で飛び跳ねる姿は愛嬌があり、可愛いと言えないこともなかった。   俺がしゃがんで頭や両耳の付け根を撫でてやると、犬はそれこそ失禁しそうなほどに喜んだ。自然に顔と心が緩んでくる。ふと強い視線を感じて顔をあげると、やつが射るような目で俺を見ていた。俺はなんだか怖くなって立ち上がると歩き出した。  結局そのまま互いに名乗ることもなく俺たちは別れた。二度と会うこともないと思っていた。
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