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「おかえり、秋彦くん」
「ただいま、千穂」
僕が佐山秋彦になって、一年程の月日が経とうとしていた。
あれから僕は完璧に佐山秋彦になりきろうと努力をした。佐山秋彦の記憶や記憶に残る感情を必死に読み解き、今では佐山秋彦がそれまでしていたような生活が普通にできるまでになった。今日も仕事へ行き、それをやり遂げ、こうして千穂の待つ家へと帰って来た。
「ねぇ、秋彦くん。今度の連休、一緒に登山に行かない?」
夕飯を終えてリビングのソファーで寛いでいると、千穂からそんな申し出があった。
「いいけど、珍しいね。千穂から山に行こうなんて言うの」
「そう? 同棲する前は偶に二人で行ってたじゃない」
そうだったか。
その辺りの記憶を掘り起こそうと、僕はしばし考える。けれど記憶を呼び起こす前に、千穂の「楽しみだなぁ」という、可愛らしい声に意識が持って行かれた。
「私、久しぶりの登山だから、色々と用意したいな。ねぇ、ちょっと気になっている登山グッズがあるんだけど、見てくれる?」
「いいよ。ど、れ……?」
千穂のお目当ての登山グッズとやらを確認するため、彼女のスマホを覗き込もうとした刹那、頭がグラリと揺れる。唐突に視界が回った感覚に、僕は慌ててソファーに手をついた。
「どうかした?」
僕の異変に気付いた千穂が、心配げにこちらを見遣る。
「いや、ごめん。ちょっと目眩が……」
「え? 大丈夫? もしかして、具合悪い?」
千穂が明らかに狼狽え出した。僕は彼女を落ち着かせるために、その細い肩に手を置く。
「大丈夫だよ。ここのところ残業続きだったし、きっと疲れが溜まっていたんだと思う」
「……無理しないでね」
「ありがとう。しばらく横になるよ」
「わかった。私、掛けるもの、持って来る」
リビングを出て行く千穂の足音を聞きながら、僕はソファーに体を横たえた。
僕は目を瞑る。暗くなった視界の中で、山神様の言葉が蘇る。
『山の子よ。どうか覚えておくんだよ。お前はこの山を長く離れれば、その存在を保てなくなる』
僕はいい加減、決めなければならない。
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