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澄んだ空気に、木々と土の匂い。
頭上に広がるのは雲ひとつない、すっきりとした青空だった。
「景色がきれい。本当に今日、晴れてくれて良かったね」
「……そうだね」
僕と千穂は当初の予定していた通り、連休を使って近くの山へ登山に来ていた。僕にとっては懐かしい故郷、千穂にとっては最愛の人を亡くした、あの山だった。
僕らは早朝から登山道を順調に進み、今は途中にある休憩所で体を休めている。
食事処などがある山小屋にはけっこう人だかりができているが、ここは小屋から少し離れた広場のようなスペースだった。こんなよく晴れた日は山の景色が一望できるおかげか、ここでお弁当を広げて食べる人の姿もちらちらと見受けられる。
僕と千穂はちょうどよく二つ並んでいた切り株の上に腰を落ち着け、家から持参していたおにぎりを食べ終わったところだった。
「ねぇ、秋彦くん。こう、景色が開けた場所に来ると、やりたくならない?」
「何を?」
千穂がまるで悪戯っ子のように、ニヤリと口角を上げた。重いリュックを脇の地面に置いて身軽になっていた彼女は、すくっと立ち上がる。
「やっ、ほーーーーっ!」
口に両手を当てた千穂は、目の前に広がる景色に向かって、思いっきり大きな声を出した。
「……あっれぇ? なんか、今日はよく響かないなぁ。前に来た時にやったら、すっごくはっきりと声が返って来たんだけど」
千穂は遠くに見える山々にすぐさま耳を澄ます。けれど、どうやら彼女が思い描いていた結果にはならなかったようで、些か肩を落としていた。
「ほら、秋彦くんもやってみなよ。気持ちいいよぉ」
千穂が、座る僕の腕を引っ張り上げながら、無邪気に笑う。
僕はその笑顔を見たら溜まらなくなった。
千穂に佐山秋彦の想いを告げたら別れなければならない、そんなことは最初から分かりきっていたことだった。
それなのに今の僕は、僕の存在が消えても構わないから、もっと長く千穂と一緒にいることを望んでいた。
「秋彦くん?」
座ったまま俯いてしまった僕に、千穂が戸惑っているのが分かる。
僕は言わなければならない、彼女に佐山秋彦の気持ちを。
それが約束だ。佐山秋彦と僕の。
けれど、告げた後も僕は。
「千穂。僕、千穂に言わなきゃいけないことがあるんだ」
千穂が僕の腕を離した。僕は彼女をの方を振り向かないまま、言葉を続ける。
「これからもずっと、僕と一緒にいて欲しい」
僕の存在が消えるその日まで。僕は彼女と共に居たい。
「千穂。僕は君のことを────」
「秋彦くん、覚えてる? 前に私が貴方に話したこと」
僕の話を途中で遮るように、落ち着いた千穂の声が急に語り始める。
予期せぬことに虚を突かれた僕は、つい彼女の顔を振り返ってしまった。
「私ね、昔、子供の頃にここで遭難しかけたことがあるの」
その言葉に、一気に僕の思考が晴れた。
いや、違う。佐山秋彦のもっと深いところに眠っていた記憶が、僕に押し寄せてきたのだ。
「キャンプに来ていた家族とはぐれちゃって、私もうダメだと思った。ここにひとりぼっちで死んじゃうんだって思ったら涙が止まらなくなったの。そうしたら、私の泣き声に気付いてくれたのよ、やまびこさんがね」
僕はカッと目を見開く。向かい合う千穂が僕を真っ直ぐに見つめていた。
「初めて会った時は大きな蛍だったのに、いつの間に人間になれるようになったの?」
「ち、ほ……。いつから、気付いて?」
開いた口が塞がらなかった。
けれど、もう僕には千穂が僕の正体に気付いた理由が分かっていた。だって、佐山秋彦の深くにあった記憶の中にあったのだ。千穂が彼に向かって幼い頃にあった不思議な体験を語る光景が。
「秋彦くんってね、私の前では自分のこと、たまに俺って言うの。でも、登山から帰って来たあの日の夜から、一度も言ってない。そうしたらね、だんだんおかしいなって思うようになった」
いつも明るく笑う千穂の瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていた。きっと僕がいっぱい佐山秋彦の記憶を探って思考したように、千穂も自分が一緒に過ごした佐山秋彦の思い出と僕との違いを照らし合わせていたのだろう。
「ねぇ、やまびこさん。秋彦くんはもう、いなくなっちゃったんだね?」
「……うん」
僕が頷くのと同時に、千穂が頬を伝い落ちた雫を拭う。
僕はいま死というものを、何となく理解したような気がした。死とはこんなにも空虚で、こんなにも寂しいものなのだと、そう理解したら僕の頬にも温い雫が流れる。
「ありがとう。秋彦くんとの思い出を、私にずっと見せてくれて。きっとあの日に秋彦くんのことを知ってしまったら、私はいまも塞ぎ込んでいたかもしれない」
涙を拭った後の千穂の瞳は輝いていた。強い光を宿して、僕と僕の中にまだ残っている佐山秋彦を見据えていた。
「私はもう大丈夫、だから──」
千穂がすうっと片手を真横へ上げた。あの広大な景色に連なる山々。僕の故郷をしっかりと指差している。
「やまびこさんをお家に返すね」
どうして彼女が登山に行こうと言ったのかこれで分かった。
初めて出会ったあの時も、僕は彼女に家へ帰してもらった。キャンプ場まで彼女を送り届けた僕が、小さな彼女に教えたのだったか。
「じゃあ、千穂。何か叫んで。そうしたら僕はそれを真似して、山に帰るよ」
やまびこである僕が、やまびこに戻る簡単な方法。それは誰かが言った言葉を真似ることだった。
「けどその前に、僕も何か叫んでみてもいいかな? ほら、やまびこが山に向かって叫ぶなんて、めったにできる体験じゃないし」
僕の冗談ともつかぬ申し出に、一瞬だけきょとんとした千穂が、その後フフフっと笑う。「そうだね」と頷く笑顔が、いつもの千穂の表情で安心した。
僕は切り株から立ち上がり、息を吸い込む。そして思いっきり腹の内から声を吐き出した。
「ち、ほーーーーっ、愛してるよーーーーっ」
僕の声が、佐山秋彦の想いが、凜とした山の景色へと吸い込まれていく。
次の瞬間、隣からも、負けないくらいの大きな声が飛びだした。
「私もーーーーっ、愛してるよーーーーっ」
僕は彼女の声を体全体で拾い上げる。
僕は再び声を張り上げた。
彼女が言った言葉をそのまま繰り返す。
佐山秋彦の姿は消えていた。
それと同時に、遠くの山々から、たくさんの「愛してるよーーーーっ」という声が、千穂の元へと返って来た。
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