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ボクが発見した時にはもうすでに、その人間の呼吸は弱々しかった。
いったいつからこの崖下に倒れていたのだろう。
一昨日の夜は雨も降っていたし、見るからに人間の顔面は蒼白だった。体のあちこちに傷は付いているし、明らかに片方の足は折れている。
これはもう助からない。
それでもその人間は、か細く掠れた声で何かを呟いている。生来から人の声を拾うのが得意なボクは、今にも消え入りそうなその声に偶々気が付き、こうして来てしまった。
ボクがしてあげられる事はあるだろうか。
ボクはぐったりとして動かない人間の近くまで、ふわりふわりと浮いていった。ボクの姿は人間からだと、球体の光が空中を浮遊しているように認識されるらしい。
昔、山で迷子になった人間の子供を助けた際には、「大っきな、蛍みたい!」と、瞳を輝かせて喜ばれたことがあった。
ボクが接近したことで視界が明るくなったのか、それまで閉じていた人間の瞼がうっすらと開く。
ボクは空中で揺蕩いながら静かに待った。ボクの方から話しかけてしまうと、たいてい吃驚させてしまうことが多いためだ。
「……ほた……、る?」
発せられたのは覇気のない、乾いた声音だった。
この人間もボクをまず蛍と表現するのだな。昔いつか出会った光景が思い出されるような気がして、感慨深くなる。
《こんにちは》
ボクの言葉を聞いて、人間が少しだけ目を見張る。
「喋っ……、た……?」
ボクは人間との距離をゆっくりと縮めていく。
話し続けても大丈夫だろうか。
できれば怖がらせたくはない。身体中に負った怪我にも響いてしまうだろうし、何よりボクは人に恐れられることが苦手である。
《急に話しかけて、ごめんなさい。どうか驚かないで。ボクは生まれてから数千年、この山で生きながら、君たち人の言葉を真似てきた。そのかいあってなのか、今では君たちの言葉の意味や使い方も理解している。君たちの言葉でボクを例えるなら、ボクはやまびこという存在らしい。ほら、君も山に来たら大きな声で叫んだことはないかい? ヤッホーとかって……》
以前までのボクにとって、ボク自身のことを人間に伝えることはとても難しかった。ボクはボクであるが、ボクという存在が何かなんて、端的に表現する言葉を知らなかったからだ。けれど、ボクは昔から人の声を真似して遊ぶことが好きで、ボクが真似をして言葉を返してやると、山に来た人々はみんな笑顔になる。だからボクは生まれてからこのかた、この遊びをずっと続けているのだと、ある時に助けたボクを蛍と見間違えた子供に教えてあげると、その子供は「じゃあ、やまびこさんだね」と、ボクのことを指差した。
ボクはそれからというものボク自身のことを、やまびこという存在なのだと思うことにしたのだ。
だからそういうふうな説明をしたつもりだったのだけれど、この人間に上手く伝わっただろうか。
「そう、か……。きみ……、やまびこ、さん……なん……、だね」
虚ろだった人間の表情に、僅かではあるが微笑が灯る。どこか楽しそうに綻んだその人間の目元に、ボクは一筋の光が差し込んだような気がして、もっとこの人を元気付けられるような何かはないかと必死に考える。
《ボクに、して欲しいことはある?》
何でもいい。ボクにできる事なら何でもしてあげようと思った。
ボクにできる事はたぶん、すごく少ないけれど、それでも。ボクは内側から急かされるみたいに、気付いたら人間へ問い掛けていた。
「やまびこ……、さん。頼みが、ぁるん……だ」
ボクは空中で思わず跳ねた。この人間の最後の力が振り絞られた気配がしたためだ。
ボクは急いで人間のすぐ眼前にまで飛んで行き、その引き攣るようにしか動かない唇へ、自分の身をギリギリまで寄せる。
「……に、……愛してる……って、伝えて……、欲し……い。そして、できれば────」
そこで、その人間の言葉は途切れた。ボクの前で横たわっていた体から、ガクンっと力が抜ける。
ボクはしばらく茫然としてしまった。
ああ、この人間は死んでしまったんだ。
ボクには死という概念は未だ難解で、これがどういうものなのかを言い表すことは、まだできない。ただ死んでしまった者とはもう言葉を交わすこともできないし、彼らの思いや考えを知ることもできない。それだけはボクにとってたまらなく悔しいものだった。
《……愛、か》
ボクはこの人間に頼まれてしまった。この人間の最後の言葉を、思いを、愛を、届けなければならない。
《愛は……、人間にとって、すごく大切なものだ》
ボクにだってそれくらいは分かる。
《……山神様》
ボクは崖の上のもっと上、高く広がる空に向かって語り掛ける。
《この人間の願いを、ボク、叶えてあげたい。だから──》
ボクが最後まで言い終わる前に、風がザワリと揺れた。今まで静かだった辺りの大気が、質量を増したみたいに重くなる。
ボクは身構えた。ボクのワガママに山神様が怒ったりしないか、すごくドキドキしたけれど、それは杞憂に終わる。
突然、ボクの身体が眩しいほどの光を帯び始めた。光はどんどん明るくなって次第にボクの存在そのものを巻き込んで大きく膨らんでいく。地面に横たわり動かなくなったあの人間の身体まで巻き込んで、どんどん大きくなったボクは、次の瞬間にはパチンっと弾けて小さくなった。
「これは……」
僕は僕自身を確かめる。明らかに僕の形は変わっていた。
意識すると指が動く両手。首を左右に巡らせば視界が辺りの風景を捉える。
何より地面を踏みしめるという初めての感覚が、僕をワクワクするような好奇心で満たした。
「僕、人間になってる……」
そう自覚した瞬間、多大な情報量が頭の中に流れ込んできた。
僕の名前は佐山秋彦。27歳の会社員。
趣味は読書と登山だったけれど、一昨日の昼頃にひとりで山道を進んでいたところ、運悪く道を踏み外し滑落。崖下にて動けなくなり、そこで残念ながら、まだ若い人生を終えることとなる。
ここまでの記憶から、僕は先ほど話をした人間の姿に変えられたのだと理解した。
これはもしや山神様のお力だろうか。
そんな考えに至ると同時に、僕の頭の中にどこからか声が聞こえてきた。
『いいかい? 山の子よ。どうか覚えておくんだよ。お前はこの山を長く離れれば、その存在を保てなくなる。その人間の願いを叶えたらすぐに帰っておいで。やまびことしての役割を果たせば、すぐに元の形に戻れるからね』
山神様の声だった。
僕は頭に降った声にお礼を返す。
ありがとうございます、山神様。僕、ちょっとだけ行って来ます、と。
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