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超人になりたい
悠馬はというと、すぐにポスターから目を離して歩き始める。明日香が笑顔で話しかける。もう一度繰り返す。明日香が笑顔を向けるのは、朝井悠馬ただひとりだけ!
「朝井くん、ドイツ語出来るもんね。ドイツ語のミステリー読めるくらいだもの。ニーチェなんか簡単だよね」
「や、やめてください。そんな……。でもあのポスターに書いてあるのは、もちろんドイツの哲学者、フリードリッヒ・ニーチェのことでしょう。父は高校の「現代社会」の教師で、ドイツ語が出来たから、ニーチェとかドイツの学者について色々調べてました。僕、父の残したメモをぜんぶ読みましたから、わりとニーチェについては詳しく知ってるほうだと思います」
「さすが、朝井くん。それじゃあ、彼の思想くらい、ちゃんと説明できるよね」
「『実存主義』の先駆者です。小説やコミックなんかに出てくる「ニヒル」の元になった『ニヒリズム』という思想を唱えました」
「ニーチェの生きた19世紀の世界では、キリスト教は没落。それまでの価値観や道徳観がすべて崩壊したという考え方ね」
「先輩の方がよく知ってるじゃないですか」
「倫理で習ったから興味はあるよ。さあ、続けて」
「ニーチェは『神の死』を主張しました。これからは神のつくった道徳や考え方なんかに頼るな。今までの常識を捨て、自分自身が強い意志を持ち、『超人』となって生きるように訴えたんです」
「すぐにスラスラ言えるのがすごい」
「いえ、あの、その……先輩の影響です。僕も一番めざして勉強してますから。先輩とつりあいがとれるように……。それから……」
悠馬が恥ずかしそうに頬を染める。
「あの女性に……。僕にとっての高嶺の花に、遠くからでいいから、喜んで見つめていてもらいたいんです」
高嶺の花。明日香ではないようだし、黒薔薇アリスのことでもない。王道高校入学を応援してくれた綺集院財閥の後継者の香蓮のことだ。
それでも明日香は思わず悠馬の頭を愛おしそうになでていた。この様子を見たら、絶対恋人同士にしか見えない。
だがふたりは「恋人」ではなく、あくまで「親友」の関係なのである。悠馬の頬がまたまた真っ赤に染まる。これで何度目だろうか?
「みじめな立場に置かれている人は、
『自分は正しい。みんな社会が悪い。高い地位にある人間やお金持ちは、自分さえよければよいと考えている道徳観も優しい心も持たない悪人たちだ』
と、どうしても考えてしまいます。『ルサンチマン』という思想です。僕だって同じかもしれません。でもそう考えている限り、どうしたって幸せなんかにはなれない。自分が成功するにはどうしたらよいか? 自分が正しいと思っていた道徳観や価値観をリセットして、自分自身を改めて、強い気持ちで行動していく。そうすれば、僕なんかでも『超人』になれるかもしれないんです」
悠馬は一瞬、空を見上げた。
「僕も『超人』になりたいなあ」
そう一言つぶやくと、寂しそうに地面を見つめた。
「よく、そんなこと考えるんです。そうすれば、今よりもっと幸せになれる。自分だけでなく、ボランティアで通っている児童福祉施設の子どもたちとか、ほかの人だって幸せにすることだって出来る。でも僕には……」
「私が『超人』になるから大丈夫」
明日香がキッパリと言い切った。
「えっ?」
「強くなんかならなくていい。朝井くんは、今のままでいいんだからね。『超人』の私が助けてあげるから」
悠馬は、明日香の言葉の意味がわからず、困った顔をした。
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