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高嶺の花は、そっと悠馬を見つめている
午前七時二十分。朝井悠馬は半袖のスクールシャツを着て、勉強机の前の壁に目を向ける。
六月のカレンダーの横に、額に入った手紙が飾られている。それが悠馬の心の支え……。
<朝井くん、名門王道高校への入学おめでとう。私からのアドバイスや応援が、少しでもお役にたったのならとっても嬉しいです。
もう九ケ月になりますね。ボランティアに一生懸命で、困っている人にすすんで手を差しのべる朝井くんのことを新聞で知り、どうしても朝井くんのような心の優しい子に、私立王道高校に入学して欲しかったのです。
私は忙しいため、あまり朝井くんに連絡することは出来ないと思います。でも遠くからなんかじゃない。すぐ近くから朝井くんを見守り、応援しています。
私の心からのお願いです。朝井くんは今まで通り、困っている人に手を差し伸べる心の優しい少年でいてください。
綺集院香蓮>
見事な筆文字である。顔も知らない、年齢も分からない高嶺の女性、綺集院香蓮。それでもあの女性からの手紙を読み返すとき、悠馬は胸が詰まって目に涙がたまり、前が何も見えなくなる。
日本を代表する財閥、綺集院コンツェルンの社長の娘という以外、詳しいことは何も分からない。たとえ分かったとしても悠馬にとっては、一生、高嶺の花のままだろう。ずっと遠くから、そっと見つめて生きていくのだろう。
「綺集院さん、行ってきます。今日も頑張ります」
そう香蓮に呼びかけてドアに向かう。ふと立ち止まって壁の額を振り返ってみる。
「綺集院さん、今、社会科の教師だった父が遺したメモで『倫理』の勉強してるんです。ニーチェというドイツの哲学者の言葉を知りました。ニーチェは『超人をめざせ』と僕らに呼びかけているんです。綺集院さんなら、きっと知ってるでしようね。今までの自分を捨てて強い意志を持って進めば、どんな人間でも『超人』になれるそうです。ぼくも『超人』になれたら、綺集院さんと釣り合いのとれる人間になれるのでしょうか」
壁に飾られたあの女性の手紙をじっと見つめてみる。耳をすましてみても、香蓮の言葉は聞こえてこない。
「行ってきます」
悠馬はもう一度、香蓮の手紙に声をかけ、ドアを開けた。
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