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「ねぇねぇお母さん、聞いて! やっと綾香が喋ったの」
萌歌が目を大きく見開いて嬉しそうに私に走り寄ってきた。その胸ににこにこと笑う綾香を抱いて。
「すごーい! で、何てしゃべったの?」
「それがね、『たーらいま』って!」
多分、「ただいま」の意味だと思う。そしてそれは。
「前にお母さんが話してくれたよね? 私が最初に話した言葉も『たーらいま』だったって! すっごい不思議! 親子でそこまで一緒だなんて!」
「そ、そうね……」
確かに、萌歌が最初に喋った言葉は「たーらいま」だった。それは姑に振り回される私が「はい、ただいま!」と言い続けていたのをオウムのように覚えたからだろう。
だが、萌歌やその夫、私にそんな口癖はない。……過去の記憶がフラッシュバックを起こし胃液が逆流しそうなほどの恐怖感を、私は堪えることができなかった。
「……どうしたの、お母さん。気分でも悪い?」
萌歌が心配そうに私の顔を覗き込む。
「え? ああ、そ、そうね。掃除していたら少し疲れたかも。ちょっと休ませてもらうわ」
そう言って、私は居間のソファーに腰掛けた。
「ええ、そうしていて。後は私が引き受けるから。……ああそうだ、晩ごはんの買い出しに行かなきゃ。お母さん、悪いけど綾香を頼める?」
ベビーカーを連れての買い物は何かと不自由だ。だから可能な限り買い物のときは私が留守番兼子守りを引け受けていたのだ。
綾香も「お母さんでなきゃいやだ」とばかりに泣くこともなかったので、特段に特別なことでもない。
「ええ、そうね。急がなくていいからゆっくりしてきなさい。たまには喫茶店でパフェを食べるくらいの贅沢があってもいいと思うわよ」
私はそう言って萌歌を送り出した。
思えばあの姑はそんな優しい言葉のひとつもくれたことはなかった。だからこそ『自分はそうなるまい』と固く誓ったのだ。家庭内の不和は不毛で、何もいい結果を生まないと知っているから。
もうひとり歩きもできる綾香は文句を言わず、カーペットの上でおもちゃと遊んでいる。そう、何も問題はないのだ。何も心配する必要なんて。
と、そのときだった。
「う……ぐ……っ!」
本当に何の前触れもなかった。だが間違いなくこれは狭心症の発作だ! しかもいつもより程度が悪い! 早く、早くニトロを飲まないと命に関わる!
だがその肝心のニトロは台所に置いたままだ。そこまでを歩いていける自信と体力は、今の私にはなかった。途轍もなく遠い数メートル。
ふと、視線の先に綾香が映った。幸いなことにニトロの瓶はテーブルの上にちょんと置かれている。言葉が通じるのなら「あの瓶を持ってきて」が通じるかも知れない。
ここは賭けるしかない!
「綾香ちゃん! あそこにある瓶分かる? あれを急いで持ってきて欲しいの!」
必死に振り絞った声に、綾香はにたり……と嗤ってみせた。まるで、あの日私の食器をゴミ箱に捨てた姑のように『してやったり』とばかりに。
「綾……香……?」
失いかける意識の先で私は確かに聞いたのだ。綾香がはっきりとした声でゆっくりと。
「た だ い ま」
と言うのを。
完
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