2人が本棚に入れています
本棚に追加
息弾ませる山場
ここから始まる僕の物語は、弱々しく、あまりに脆い。泥臭くて、痛々しい。けれど、信じたい。これは劇的で美しいドラマだと。声が聞こえる。それは確かに、耳に入って来る。僕は微笑む。笑う。さっきまで淀み、沈んでいた瞳は嘘のようだ。輝く湖畔のように、目は潤っている。
「ねえ、僕いまどんな顔してる?」
僕は思わずソファから飛び上がっていた。リビングの時計は音を鳴らして針を進める。尋ねられた母も、満面の笑みを浮かべている。その目は半分泣いていた。父は、変わらず床のカーペットに座ってテレビを見ている。相変わらず無口で、寡黙だ。しかし、その背中を微かに揺らしているのを、僕は見た。父も、嬉しいんだな。
僕はもう一度テーブルに置かれてあるパソコンの画面を見やる。書かれてあるのは合格通知。僕は、人生で初めて、成功体験を得たのだ。これまで勉強しかしてきておらず、家も貧しかった。水商売をしていた母のこともあって、散々馬鹿にされて来た。「水商売の息子」「汚い子供」と後ろ指を差され、友達やその親にも白い目で見られ、いじめられて来た。罵倒され、時々暴力も振るわれた。その度に何度も歯を食いしばり、耐えてきた。それでも、僕は東大に合格したのだ。
「人生の山場って、いつなんだろうね」僕は皆に尋ねる。「それってさ、今なのかな」
母は少し首を振り、言う。
「ううん。違う。今をゴールにしちゃ駄目。通過点になさい。あなたは、まだ始まったばかりなの。人生の再スタートが、切られたばかりなのよ。これからも、辛いこともたくさんあるけれど、頑張りなさい。精進なさい」
僕は、今まで辛かった。それでも、幸せだった。どれだけ周囲から馬鹿にされ、蔑まれても、帰ってきたら出迎えてくれる家族がいたから。その皆に恩返しが出来たことが、何よりも幸せだった。
僕はもう一度、父さんと母さんを見やる。相変わらずテレビに向かって背中を見せる父さん。その肩から、内なる熱気を感じる。母さんの方を見る。僕と目が合い、微笑む。この、母さんが僕に向ける微笑みを見るのが、僕は好きだ。窓際のレースのカーテンが、微風に揺れる。柔らかい日差しが差し込み、父さんと母さんの顔を照らす。父さんの横顔から覗くまつげ。母さんの微笑む目尻の皺。時間が、ゆっくりと流れる。
僕は、これから何年、何十年とかけて、親孝行をしていこうと思う。そのために、夢である政治家になりたい。人を変え、世を変え、誰かを救いたい。そんな、大志を胸に持った僕を、どうか見ていてください。父さん、母さん、いつもありがとう。そして、これからもよろしくお願いします。どうか、見守っていてね。
✡
傾きかけた太陽が、わたしのいる山中を照らす。あたりは森。木々が揺れている。日に当たった木々の影が、わたしを覆い隠すようにかかる。わたしの頬は上気している。
わたしは少し顔を歪める。それでも、少し顔を綻ばせてしまう。風が、冷ややかにわたしの背中を突き刺す。いつものように、誰かに後ろ指を差される気分になる。
ああ。どうして、人生はこんなにつまらないんだろう。どうして、何もかも思い通りにならないのだろう。わたしは、薄汚い世の中を軽蔑する。意地悪な元同級生も、白痴な一般市民も、内容の無いことで唾を飛ばす議員も。わたしは何も生み出せなかった。何も成し遂げられなかった。議員になっての十年は、全て無駄だった。裏金、改ざん、嘘。私欲にまみれた愚民。東大を卒業して希望と誇りを胸に、期待と高揚感を覚えながら見た景色は、あまりに汚れていた。もう、こんな景色は見飽きた。もう先が見えた。だからこそ、汚い政治家達をわたしは許さない。わたしを卑屈にさせて馬鹿にしてきた輩を、絶対に許さない。
わたしは今彼の首を絞めている。
わたしは歯を食い縛る。目をかっ開く。世の中に、世間に、怒りが湧いてくる。わたしは静かに肩を震わせ、息を荒くする。手に一層力が入る。うっ血した首から上が、真っ赤に染まる。誰の声も耳に入らない。もう、全てを終わらせるのだから。
声? 朦朧とする意識の中、違和感が頭の中に登る。首を絞められている彼から声など発せられるわけがない。違和感はやがて脊髄から全身に広がる。わたしは、なぜここにいるのだろう?わたしは一体、何を考えていたのだ。そもそも、奴とは一体誰のことだ。
そして、声はようやくわたしの耳に響く。
「照ちゃん!!」
母親の声だった。何よりも切実で、どこまでも明瞭な声だ。そしてどういうわけか、わたしは自分の首を絞めていた。父親に手を引き剥がされるまで気が付かなかった。わたしは溺れた人が息を吹き返したみたいに思いっきりむせた。
二人は、わたしの目の前にいた。母は、安堵とも悲しみともつかない切ない表情でその場にへたり込んだ。父は、わたしの手を強く握りしめた後離し、片手を顔に埋ずめた。初めて父の泣く姿を見た。
わたしは混乱していたが、母の叫びを聞き、父が首から手を引き剥がしてくれた途端に、全てを理解した。そして思い出した。
わたしは議員になってからというもの、世の中の、政治の、汚く淀んだものをたくさん見た。しかしわたしはめげずに、必死に世を、皆を変えようと粉骨砕身働いた。しかし変わらない現実。害悪の大人達。十年、やってきたが、本質な問題は何も解決しない。暮れる十年の徒労感と無力感。わたしはそれに絶望し、自殺を決意した。それでも今日両親に自殺する旨と場所をメールしてしまったのは、止めて欲しかったのかもしれない。
「ねえ、照ちゃん」母は話す。「照ちゃんがこれまで何を見て、何を思って来たのかは、本当の所は照ちゃんにしか分からない。でもね。人生に無駄なんて無いのよ。どんなに不幸や苦しみがあったとしても、それは全て宝物。酸いも甘いも経験したあなたにしか出来ない事がある。何もせずインターネットでばかり意見してるような輩とあなたとは、訳が違うの。きっと、全てに意味がある」
その時、携帯の着信音が鳴った。静寂の山中に、けたたましく鳴る。わたしの携帯だ。ポケットからそれを取り出し、見るとわたしが可愛がってる後輩の議員からの電話だった。父が頷く。母が、出なさいというように目配せする。
「もしもし、照史さんですか」
後輩の声は興奮に震えている。
「どう、した」わたしは声を絞り出す。
「先輩の提案した、年輩と子供の為の条例、先程議長に確認した所、良い提案だと驚いたあと、『照史は、良い議員になるぞ』と褒めてましたよ!これは、議会で可決されることは間違い無いと思います!人々が喜ぶ姿が目に浮かびます!」
後輩はしばらく興奮気味に話した後、電話を切った。
「ほら、ね」
母は、分かったでしょ、という顔をする。
「あなたは、あなたにしかできないことがあるの」
そして、あたりを見廻し、木々を指差す。
「ほら、見て。あそこの木は枯れている。でも、あそこの木には、生きた緑がたくさんある」母はわたしに向き直る。「世の中には色んな人がいる」
そして母は山頂を指差す。
「人の人生の山場がいつかなんて、それは分からない。でもね、それは常に更新していくの。枯らすも生かすも自由。あなたは、これからを見据えるのよ」
父が、わたしに歩み寄り、わたしを熱く抱きしめる。
「照史ならやれる」
抱きしめ返し、言う。
「もう一度、やり直してみる」
母はにっこりと微笑み、小さく頷く。陽が、木々の間を通り、母の微笑みを優しく照らす。
「僕の人生の山場は、これからだ」
いつの間にか、昔のような気持ちに、なっている。
ここから始まる僕の物語は、弱々しく、あまりに脆い。泥臭くて、痛々しい。けれど、僕は信じたい。これは劇的で美しいドラマだと。声が聞こえる。父と母の声だ。それは確かに、耳に入って来る。僕は微笑み、笑う。さっきまで、淀み、沈んでいた瞳は嘘のようだ。輝く湖畔のように、目は潤っている。
最初のコメントを投稿しよう!