イエロー・ムーン

1/5
前へ
/5ページ
次へ
もう九月だというのにまだ残暑が厳しい。それでも日毎日の入りは早くなっていて、午後七時ともなればとっぷり陽が暮れていた。 僕は会社帰りに立ち寄ったスーパーの袋を片手に誰もいない部屋に無言で帰宅すると、部屋着に着替え片付けも早々にキッチンに立った。 使い込んた浅めの両手鍋にマスタードオイルをたっぷり入れ、その中に擦り下ろしたにんにく、生姜、クミンシードを入れる。 それから火を点け弱火でじっくり炒めていると、クミンシードがパチパチ音をたてて黒ずんできた。辺りにいい香りが満ちてくる。焦がさぬようにタイミングを見計らってみじん切りした玉ねぎを入れ、火力を上げた。 玉ねぎの色が変わるまで炒めたら、トマト、ターメリック、チリ、ガラムマサラ、コリアンダー、塩、クミンパウダーを入れて更に炒める。 コトコト、コトコト 隣では、数時間水に浸けたレンズ豆(ダル)が入った片手鍋が火にかかっている。この中にはレンズ豆と水の他に塩とターメリックが入っていて、豆が柔らかくなるまでコトコト煮込んでいく。 ―ガチャ 玄関の鍵を開ける音がした。 足音が近付き、僕は背後から力強い腕と厚い胸板に包まれる。 「ケント!」 「カマル」 振り向いて顔を上げ、笑顔を向ける。 褐色の肌に映える薄ピンクの唇が嬉しそうに弧を描いた。垂れ目がちの目尻に、ぎゅっと皺が寄る。彼は白い部分が目立つ目を鍋の方に向けた。 「ダルだね!オイシそうだ」 「……その前に、何か言うこと忘れてない?」 「え?んー…アイシテル?」 「……っ!違う!」 思わず僕は赤くなった。 しかし彼は冗談で言った訳ではないようで、思案顔で首を傾げている。見かねた僕はヒントを出した。 「帰ってきた時に言う言葉、忘れてない?」 「……わかった!タダイマ!」 「お帰り、カマル」 僕の恋人はインド人。 大学生の時に日本に留学、その後就職するため就労ビザを取得し、現在日本(こちら)の企業で働いている。彼が僕の勤める会社にSEとして出向してきたのが出会いのきっかけだった。 日本語はある程度できるが基本的に人と向き合う事が少ない職種の為、互いに仕事上では文化の違いを感じる事は少なかった。しかしプライベートで友人として付き合うようになると、少しずつその違いが見えてくる。平気で時間に遅れるし、インド料理屋なんか行った日には僕を放置してインド人の店員さんと喋りまくる。でも、そんな彼の人懐っこい所やポジティブで明るい所に僕は惹かれていった。 一年前から付き合い始めると、よりリアルに違いを感じるようになった。帰宅後の挨拶も、その一つだ。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

36人が本棚に入れています
本棚に追加