8人が本棚に入れています
本棚に追加
「ふむ、アルコールを抜くために一日待ったのは賢明ですね。お酒が入ると、どうあっても事故の可能性が増える。事故に遭えば当然、トランクに積んだ遺体も露見してしまう。輸送時の安全に気を払うのは、基本中の基本と言えます」
まるで教え子を褒めるような口ぶりだが、内容が内容だけに俺は苦笑するしかない。
女に襲われた俺は、その後すぐに動くことはしなかった。
まずは死体を、歩いて数分の俺のアパートに運び込んだ。道路の血痕は、雨が良い感じに洗い流してくれた。……雨、そう。襲撃の夜、東京は秋にしては珍しく豪雨に見舞われていた。これは俺の想像だが、女も女で俺の死体を隠すつもりでいたんだろう。だからこそ事件が露見しづらく、血痕が残りにくい天候を襲撃のタイミングに選んだのだ。
もっとも、それで返り討ちに遭ってりゃ世話もないんだが。
「……で、どんだけ掘りゃいいんすかね、これ」
掘り進めた穴の底にショベルを突き刺し、いい加減痺れの出てきた手をぷるぷると振りながら問う。
ここは、山道から百メートルは入った森の奥で、オッサンが言うには、昔とあるホテルチェーンがリゾート開発のために買い取った後、業績悪化により中国系企業に売却。ところが、こちらも本国での業績が危うくなりーーとまぁ何にせよ、しばらく人の手が入る予定のない場所、なんだそうだ。
「うーむ、まだまだですね。最低でも2メートルは堀り下げたいところです」
「2メートル!?」
オッサンが持参した懐中電灯で深さを確認する。穴は、どう贔屓目に見てもまだ俺の腰の高さほどしかない。
「えー……もう充分じゃないっすか」
「いえ、この程度だと腐臭を嗅ぎつけた野犬や熊に掘り起こされてしまいます。もちろん、臭い消しの薬剤は撒きますが、それでも穴だけは妥協できません」
そう深刻顔で頷くオッサンは、相変わらず黙々と穴を掘り進めている。若い俺がヘバってんのにバケモンかよこのオッサン、とつい愚痴を漏らしたくなるのを堪え、俺はふたたびスコップを手に取る。
穴の隣には、俺が持ち込んだ女の死体のほかに、見知らぬ中年男の死体が無造作に転がされている。あれは……このオッサンが殺したんだろうか。
冷たい汗が、つつ、と背中を滑り落ちる。
すでに一人殺した俺が言えた義理じゃないが、こいつも一応、殺人犯ではあるのだ。しかも……明らかに場慣れしている。
ようやく穴掘りが終わると、今度は死体から衣類を剥ぐようオッサンに指示された。
「身元の特定に繋がる衣類や装身具を残すのは得策じゃありません。服はもちろん時計やアクセサリーの類も全てです。ああ、でも、いくらお金になるからといって中古ショップに持ち込むのはいけません。足がついてしまいますからね」
「う……うす」
やっぱりこのオッサン、慣れてやがる……。
ともあれ、指示通り死体の服を剥ぎにかかる。オッサンは中年男、俺は女の服を。別にラッキーとは思わない。俺としては、むしろ逆の方が良かったぐらいだ。自分で手をかけた相手の服を剥ぐよりは、見知らぬ被害者の服を剥ぐ方が気分的にはマシってもんだろう。
そうして服はもちろんピアスまで一つ残らず外した後で、ふと俺は、何かを忘れているような感覚を得る。はて、何を忘れているんだったか。ブレスレットは外した。臍のピアスも……うん、大丈夫、気のせいだ。
作業を終えると、いよいよ死体を穴の底に下ろす。作業が済むと、オッサンは持参したペットボトルの中身を穴の中にざっとぶちまける。さっき話していた野犬避けの消臭剤だろう。
「この後はどうするんです? 焼いたりとか?」
背中に貼りつく薄気味悪さから逃れたい一心で冗談っぽく尋ねると、オッサンは出来の悪い生徒に諭すように「いいえ」とかぶりを振った。
「君は、火葬場で人一人を焼くのにどれだけのエネルギーを要するか知っていますか。灯油の場合、四〇から六〇リットルと言われています。一般的なポリタンク換算で三本から四本といったところですね。案外少ないように思えますが、これは熱効率の良い炉で焼く場合の話です。こういった露天で焼く場合、その倍以上の熱量が必要になります。温度も上がりにくい。そのような中途半端な焼きでは、人体の分解を助ける微生物を無駄に減らすばかりで、かえって逆効果です。分解酵素の働きも悪くなる。食肉も、生より火を通したものの方がより日持ちがするでしょう。同じ原理ですよ」
そして男は、今度は何食わぬ顔で穴を埋めはじめる。まるで日曜大工でも愉しむかのようなオッサンの横顔を盗み見ながら、慣れてるなんてもんじゃない、と俺は生唾を呑む。
間違いない。このオッサン、プロだ……。
「ありがとうございました。やはり若い人の手があると楽で良いですね」
埋めた穴を丹念に踏み固め、腐葉土を敷き終えると、オッサンは泥だらけの顔をやんわりと弛めた。片や俺はというと、疲れすぎて声も出ない。苦笑いのまま「いえ」と相槌を打つのが精一杯だった。
すでに空は白みはじめ、森には鳥の声すら響いている。
「そうだ、いつか今回のお礼をさせてもらえませんか」
「えっ……お礼、っすか?」
「はい。誰か、身近に始末したい方はいませんか」
「……始末」
一瞬、何の話をされたのかわからず、やや遅れて「そういやこのオッサン、殺人鬼だったわ」と理解が追いつく。……って、始末? それってつまり、俺の代わりに誰かを……いやいやいや、いくら何でもそりゃヤバいって! すでに一人殺した俺が言うのも何だけど!
「えっ、ええと、いや特には……」
「そうですか。まぁ、いずれ入用になることもあるかもしれませんし、これも縁です。どうぞ」
そしてオッサンが差し出してきたのは、一枚の名刺。たった今二人分の死体を埋めておいて、こんな、ザ・日常みたいなアイテムを差し出されるとさすがに反応に困る。しかし、相手はおそらく何人も殺してきた殺人鬼。下手に刺激すれば今度は俺が、この人里離れた山奥に眠ることになるだろう。
一方、オッサンは相変わらず人の良さそうな笑みで俺を眺めている。
「ど、どうも……」
恭しく受け取り、そのままジャージの腰ポケットへ。一応持ち帰りはするが、こんな得体の知れない殺人鬼と関わるのは二度とごめんだ。
最初のコメントを投稿しよう!