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集会所に戻ると、男衆に囲まれて畝さんが頭を項垂れていた。
脇には、お膳が置かれていた。
慌てて近寄ると、お膳から饐えたにおいが漂った。
「お膳が腐っているんだよ」
隣に立った男の人が教えてくれた。
祖父の言葉が急に脳裏に浮かんだ。
『誰も見ていないからいいだろうとやったこともすべて、神さんは観ているからな』
「申し訳ありません!」
僕は、直角に頭を下げた。
姉だ。姉のせいだ。
神さまの領域へ足を踏み入れるとき、祖父は普段から控えてはいたが、必ず肉断ちを徹底した。肉の成分が入っているものも避けた。
お山に登る一週間前からは、卵さえ食べなかった。
前日からは玄米食を徹底していた。
料理をする祖母にさえ、肉を触るなと厳しく言っていた。
「姉が、不浄をしたせいです」
僕は救急隊員に言われたことを包み隠さず話した。
班長が、僕の前へ進み出た。
「頭を上げなさい。君が悪いんじゃない。わしら全員の傲慢に、神さんが怒っているんだろうから」
そっと顔を上げると、顔じゅうに深いしわを刻んだ、白髪の老人が静かな目を僕に向けていた。
「神さんはものを言わんで、わしらに告げるからのう」
その場が、しいんと静まり返った。
「祭祀は行わねばならない。いまからお膳の支度をする。うちのばあさんに頼んでくれ。鍵はわしがうちへもっていく」
誰かが、さっと扉から飛び出ていった。
僕はすみません、と小声で謝った。
どれだけの手間をかけやり直すのか、僕にはわからない。わかっているのは、日が暮れるまでに山に入って祭祀を終わらせ降りてこなければ、安全ではないということだ。僕はそれが本当に申し訳ないと思った。
「心配せんでも、うちのばあさんは慣れているからすぐに作り終える。それより、みんなの写真と祭祀の記録を頼むよ」
「わかりました」
僕は深くうなずくと、カメラを握りしめた。
「君は、山に入っても体調を崩さなんだな。ちゃんと肉断ちをしていたということだ。よかったよ」
班長は、肉断ちをしないで入山した者の末路を話してくれた。
姉のように嘔吐が止まらない者、頭痛でのたうち回る者、下痢が止まらない者と、とにかく肉体へのダメージが大きいのだということだった。
僕たちは、再び山へと入っていった。今度は班長が同行した。
雨は少し小降りになりはしたが、やむ気配はなかった。
雨濡れた衣服は重かった。
だれも口を利かなかった。
僕は改めて道中の写真を撮った。
シャッターを切っていても、うなじのちりちりした感覚のほかに、あちこちからの視線を感じた。
みんなは気がついているだろうか。僕らのまわりだけ、空気が冷たい。ちょっと離れたところの枝は動かないのに、僕らのまわりにだけ時折向かい風が通っていった。
祭祀は班長が取り仕切った。
班長の祝詞が終わると、雨はすぐに止んだ。
雲が切れて、夕日が顔を出した。
空を見て、班長は改めて祠に深々と頭を下げた。
僕たちは再び、急ぎ足で下山した。
下りの道を足早に進む間中、あの、恐ろしく鋭い、深淵から注がれるような視線は途切れることなく感じられた。
僕は後ろを決して振り返らなかった。
『お山は命懸けぞ』と言った祖父の言葉が耳の奥で聞こえた。
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