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「とおるぅ、まだ怒ってんのかよ」
放課後、名塚の自室。部屋の主である名塚は椅子の上であぐらをかき、話しかけられた八神はと言えば、ベッドに不満顔で腰掛けていた。脚を組んで頬杖を付き、名塚と目を合わせることもしない。
付き合い始めてからというもの、八神の予備校がない平日の放課後はこうしてお互いの家に行くことが主だった。小学校からの付き合いで元々家も近所であり、どっちになったところで距離的には何の問題もないのだが、どちらかと言えば家族が不在がちな名塚の家になる方が多かった。
その道すがらでも、八神は不機嫌だった。基本必要なこと以外喋らない八神だが、それに加えて「いま俺に話しかけるな」と名塚の発言まで制限したくらい、とにかく不機嫌だった。理由は言わずもがな、文化祭のメイド喫茶における名塚の女装メイドの件だ。
「しょーがねえじゃん」
頭の後ろで組んでいた両手を足の裏に添えながら口を開く名塚は、やはりさほど気にした風ではなかった。「クラスの出し物なんだからさあ」
「おまえが拒否しなかったからだろうが」
このあっけらかんとした態度が、余計に八神の神経を逆撫でするのだ。抗議にもつい力が入る。
「そうだけどよ、あのおとなしい熊谷さんがどうしても無理ってなったわけじゃん? メイド。だから人数足りなくなっておれにー、って話だろ? まあ熊谷さんの事情はよくわかんねえけど、ああいうタイプの子があそこまで拒むってのは並々ならぬ理由があってのことだと思うし………。やっぱり文化祭はさあ、全員ってのは無理かもしれないけどできればみんなで楽しみたいものじゃん? だからそこはさあ」
「熊谷さんのことをどうこう言うつもりはない」
これは本心だった。彼女のことなど知りもしなければ、『おとなしいクラスメイト』以外の認識もない。彼女を責める気持ちなど、八神の中には微塵も存在していなかった。
「そうなん?」一瞬きょとんとなった名塚が、次の瞬間には「だよな」と笑顔を見せる。
「徹もそういう認識でよかったー。無理強いしたって楽しくないもんな。裏方なら頑張るって熊谷さんも言ってたし、それぞれ頑張れるところで頑張った方がクラスも良くなるし、楽しいって話だよな」
「……………」
「こういうのあれだ、なんだっけ四字熟語で………適当、じゃなくて………適、てき」
「………適材適所?」
「そう、それ! さすがとーる、ボキャブラリーが豊富だよなあ」
そんな熟語は小学生でも知ってるだろ、という皮肉も、八神の口からは出なかった。不自然なほど間を置いてからようやく「そう……だな」と虚ろに呟く。
八神としては、そこまで考えたつもりはまるでなかった。熊谷さんがメイド服を着ようが着まいが、どこで頑張ろうが、はたまたクラスに迷惑をかけようが、何とも。彼女は、八神にとって何でもないから。
名塚は違う。純粋に彼女のために心を砕き、クラス全体の輪を考える。なるべくだったら誰も嫌な思いをしないように、みんなが楽しめるように。そこに自分へのメリットがあるかどうかなんて考えないのだろう。名塚は、そういう打算で動く奴ではないから。不特定多数のためにでもそう振る舞えるのが、名塚だから。
そんな名塚の姿を見るたび、八神は感情が揺らぐ。彼のそんな面が好きだと思う反面、自分にはない一面を突き付けられることで、自らへの嫌悪感に苛まれるから。
好きだから傍にいたいのに、傍にいることで生まれる苦しみ。付き合い始めてからというもの、八神はそんな悩みに捉われる時間が増えていた。
「じゃあ、とーるくんは何にそんな怒ってんのよ」
呑気な名塚の声で我に返る。放っておくと思考の沼にはまりがちな八神にとって、こんな風に無邪気に話しかけられることは有難くもあるが、この察しの悪さが頭を悩ませる要因の一つでもあった。はあ、と大袈裟にため息をつく。
「おまえが女装してメイドに扮する件に決まってるだろうが」
「だからそりゃあ熊谷さんがどうしても無理ってなったから」
「熊谷さんの話じゃない。女子が一人足りなくなるのもわかってる。だからってどうしておまえに白羽の矢が立つんだって話だ。別におまえじゃなくたっていいだろうが、手が空いてる男子だっておまえより小柄な奴だって普通にいるだろうに」
「………矢、って? え? おれメイドだけじゃなくて何か他にしなきゃいけないんだっけか」
「~~~っ白羽の矢くらい知っとけ! 辞書を買え!」思わず八神は拳を振り下ろしていた。ぼす、と間の抜けた音でベッドが衝撃を吸収する。
「まあまあ、そんな怒るなって。そうは言うけど、みんなやりたがらなかったし………いや別におれもやりたくはねえんだぞ? でも、おれがうんって言わなきゃどーにもならない雰囲気だったじゃんか」
確かに、それは名塚の言う通りだった。
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