僕はあなたになりたかった

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 静かだ。  普段の生活ではいくら努力してもおおよそ得ることができないような静寂が、ここにはある。  優しい風がかすかに木々を揺らす音と、二人分のゆっくりとした足音だけが、静かな空間にやけに目立って響き渡る。  僕はゆっくりと瞬きを繰り返して、この空間に浸った。こんな状態で、僕は未だかつてないほどの安寧を享受している。それが少しおかしくて、僕は無意識に鼻から深く息を吐き出していた。僕の身体は笑ったつもりでいるのに、周りにはそうは捉えられないことに関しては、もう諦めている。  例外なく、僕の目の前を歩いていたひとも、僕が疲れきって一息ついていると捉えたようだった。  彼はゆっくりとこちらを振り向いて、いつも以上に柔らかい声色で言った。 「ずいぶん歩いたよね。もう暗くなってきた。ここは平坦だし、……うん、水捌けも良さそうだ。もう今日は、ここに野宿しようか」  僕が何も答えずにいると、彼は少し狼狽したように、言い募った。でも大丈夫、絶対に君を家に帰すから、今日だけの辛抱だから、そんな珍しくも焦った柔らかい声を聞きながら、僕はこの幸運を静かに噛み締めた。    山を、彷徨っている。  もう、正規のルートを外れて、二時間以上にもなるだろうか。いつの間にやら、気づかぬうちに遊歩道は遠ざかってしまっていたので、正確な時間はわからないが。  熊が出たのだ。登山も佳境で幾分か疲労しており、注意力が普段よりも散漫だったせいか、遊歩道にのっそりと、堂々とその姿を現すまで、その存在に気がつくことはなかった。  幸いにも、熊はこちらに背を向けて進んでいったから、僕らはそっと遊歩道の脇の、うっそりと木々が茂る森に身を隠し、熊となるべく離れるべく、歩き回った。歩き回った、といっても、僕は山に詳しいらしい同行者の後ろについて行っただけなのだが。  そうして、熊から離れるのに必死で歩いていたら、いつのまにか、遊歩道には戻れなくなっていた、らしい。どうしよう、といつになく焦った声を聞いて、僕はやっと、事態の大変さに気がついた。  今思えば、彼は明らかに平静を欠いていた。常ならば、かすかな風が緩やかに揺らす水面のように、決して大きく感情を揺らすことはない彼のことだから、と僕は全面的に彼にこの身を預けていたのだが、それが悪手だと気がついたのはその時だった。  熊だ。山に詳しい彼だからこそ、その恐ろしさを知っているのだろう。思っていたよりも、小さな体躯だった。それでも、その思いの外小さな背から発せられる存在感には、確かに緊張させられた。それなのに、どうして彼だけは冷静でいられると思っていたのだろうか。  彼は、ずいぶんと申し訳なさそうに、僕に頭を垂れた。ごめん、と言った。君の姉さんに申し訳が立たない。君を必ず家に送り届けるから、と。  僕は言いようのない切なさを感じながら、はい、と答えた。  彼は珍しくずり下がり掛けた黒縁の眼鏡を指で押し上げて、その緩やかに垂れ下がった眉をさらに困らせながら、それでも僕を安心させるためか、微笑んで見せた。  大して歳も変わらないのに、彼は僕を、なぜか庇護すべき存在として認知している節がある。  そもそも、僕が彼を山に誘ったのに。彼の立場を考えると、特段親しくもないが関わらないわけにもいかない、という厄介な存在の()()()を押し付けられるはめになったと項垂れてもいいくらいなのに。  彼と僕は、友人ではない。同輩ではないし、ましてや、当然、恋人なんかでもない。しかし、僕らは家族になるかもしれない。  彼は、僕の姉の恋人である。    
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