僕はあなたになりたかった

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***    姉がこの人を、恋人として我が家に連れてきたのは、二年ほど前のことである。  僕、姉、母の三人暮らしの家の小さなテーブルに、遠慮がちに腰掛けた彼の姿は、控えめながらも堂々としていて、いつのまにか自然に我が家に馴染んでいた。  その緩やかに伸びた背筋を見て、僕は嫌味なほど綺麗な人だと思ったのだ。人のことを綺麗だと思ったのは、初めてだった。  特に目立つようなタイプではないのに、やけに目を惹く人だった。もっさりしているとも言えるような坊ちゃんカットを揺らし、黒縁眼鏡の下から覗く細い垂れ目は、笑うたびに弓形に細まってほとんど線のようだった。その場にいるだけで、なんとなく優しい時間を生み出すような雰囲気があった。  母はすぐに、姉の連れてきた恋人を気に入ったようだった。わりかしおとなしくて口数も多い方じゃない母が、彼の前ではよく喋った。笑う母の頬が、ほんの少しだけ赤らんでいたことを知っているのは、きっと僕だけではないはずだ。  姉が連れていた恋人に母が懐柔されて、この家を乗っ取られると思ってもいいくらいなのに、僕はなぜか、この人にだけは警戒心を抱けなかった。まるで部屋の中央に置かれた何かを守るために張り巡らされた罠のように、常に誰に対しても過敏に警戒していた僕の心の真ん中に、いつのまにかワープしてきたように、この人は初めて会ったときから僕の世界の内側にいた。  彼は僕と姉とを優しく見比べて、見た目も話し方も全然違うけど、よく似ているね、と言った。僕は初めて、この人と親しくなりたい、と思った。  実のところ、僕と姉は全く似ていなかった。見た目も、話し方も、それどころか全て、姉は母の胎内にいるときに、僕が持って生まれるはずの素晴らしい部分を全て吸い取ったかのように、よくできた人間だった。そしてその粕を集めてできたのが、僕である。  いや、先天的なものだけではない。でもしかし、まるで同じように育てられた双子の僕らがここまで違ってしまったのは、やはり生まれ持った気質によるところなのではないか、と思ってしまう。  同じようによく、厳しく鍛えられた刀が名刀となるか()()()()となるかは、やはりその材質によるように。  父のことである。もうすでに母とは離縁したが。  父はいわゆる昭和の人間で、今の時代を生きる僕らには、その躾は過度に僕らを叩きつけ壊すようなものだった。  その躾は、要領よく他者との距離を測れる強靭な精神を育てるか、常に他者に怯え縮こまる脆弱な精神を育てるか、二つに一つである。  僕と姉の場合、前者が姉で、後者が僕である。  外向的で誰とでもうまく関係を築ける姉に対し、人付き合いが極度に苦手で常に引きこもっている僕だ。全く違う。正反対とまで言ってもいい。  だけど、姉と僕とで唯一似ているところがあるとすれば、本当に心を開ける人間は、誰もいないというところである。広く浅く、誰とでもうまくやる姉と、そもそも交流がゼロの僕では、同じように考えるのが烏滸がましくはあるが。  だから姉が恋人を連れてくる、と言ったとき、僕は驚いた。恋人、なんて。そんな心の内側まで招き入れなくてはならないような関係に落ち着けるような存在が、姉にいるなんて。  だが、しかし、姉が連れてきた人は、確かにあまりにも簡単に、僕の心の内側に入ってきた。いや、入ってきたというよりは、居た、と言った方が正しいか。それほどまでに容易に、僕が自分でも気がつかないうちに、彼を僕の内側に招き入れた。大して話もしてないうちに、彼を取り巻く全てに惹かれた。  僕は姉の恋人と、親しくなりたかった。しかし、人と関係を持つことをとことん避けてきた僕にはどうすればよいかわかるはずもなかった。  そうして悩むうちに、いつのまにか季節は二回も一周した。僕は彼が家に来ると、母と姉と話すその姿を離れた距離からよく見ていた。  姉はそんな僕の姿に気がついていた。おそらく、ずっと前から。姉は僕に言った。私たち、好みのタイプはおんなじなのね、と。  ふざけるな、と思った。あなたと一緒にするな、と。性愛なんて、そんなくだらない感情と、僕のこの感情を、一緒にするな。  その翌日、僕は姉の恋人を、登山に誘った。姉に対する、軽い意趣返しのつもりでいた。でも心の奥底ではもしかしたら、この状況を望んでいたのかもしれない。
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