髭売る男

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 また、ある時に、いつもと同じように男が庭で空を見上げていると、塀の向こうで隣の奥方(おくがた)が誰かと話す声が聞こえて来た。  恐らくは近所のどこか別の奥方と、くだらない世間話に花を咲かせているに違いない。男はそう思って耳を澄ませていた。 「まあ! ウチの息子にも爪の(あか)(せん)じて飲ませてやりたいわ! 」  どちらがどちらかは(はん)()ねたが、一方の子息が(ひど)く優秀で、一方の子息はと言えば、卯建(うだつ)が上がらないとは言えないまでも、それほど優秀ではないのだと言う。そんな話であったようだ。  「やはりくだらない」と男は思った。  だが、そこでまた男は閃いた。 ─ 『爪の(あか)を煎じて飲ませる』とは、(およ)そ迷信には違いないが、昔の人の言うのは大抵に()いて(まと)を得ているのであるから、その内に爪の垢の有用性が着目され『国立・爪の垢研究所(つめのあかけんきゅうじょ)』なるものが出来ないとも限らない。  ならば、これを無碍(むげ)に廃棄してしまう手はないではないか ─  思い立ったが吉日。  男は(せん)鼻紙(はながみ)の全てを庭に持ち出して、一斗缶(いっとかん)の中で燃やしてしまってから、(ただ)ちに和室へ戻ると、広告を広げて爪を切る事にした。  時間は嫌と言うほどある。  空を見ている時間を、少しばかり爪の垢を穿(ほじく)る時間に充てがえばいい。  男は手と足と、二十本の指の爪をすっかり切ってしまってから、台所から爪楊枝(つまようじ)を持ち出して来て、切った爪から一つ一つ丁寧に、爪の垢を取り出した。
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