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硬い床を背中に感じている、おまけに不思議な揺れも伝わってくる。
どう考えても布団の上じゃないけれど、普通の平らな底面でもなさそうだ。
ゆっくりとまぶたを開けると、青空と雲が見えたのでどこかの屋外だ。
肘をついて身体を起こそうとして、床の手応えが背中よりも少し上にあるのを感じた。
両目を開けて空を見てから少しだけ顔を動かすと、自分がちょうどゆるい溝状の中に横たわってるのが分かった。
ぼんやりと記憶を手繰り、昨晩の酒の量を思い出した。
……いささか度を越したけれど、こんなになるまで飲んでしまったのは久しぶりだ。
自宅に帰らずにどこぞの道路脇の側溝に横たわってるなんて、雨でも降ってたら溺死してたんじゃなかろうか。
しかし材質はコンクリでもない、なんだこれは……
手を伸ばし側面の縁を掴んで半身を起こしてみた。
「おはようございます、そのまま立ち上がらない方がいいですよ、座ったままで」
足元の方から声がして、顎を引いてそちらを見ると初老の男が同じ溝に座ってこちらを見ていた。
いや、いるところは溝ではなかった。
僕と男は二人でボートの上にいた、周りには何も無かった……大海原で。
酒が抜けてないにしても、こういうのはさすがにおかしい。
が、とりあえず目の前の男に敬礼をしてみた。
「え、えーと。確か昨夜、一緒に飲んでましたよね、そこら辺は覚えています」記憶を手繰りながら話した。「昨夜が初対面でした、あなたとは。なんか話してるうちに意気投合して、いや僕が一方的に話してた気がするんですが、いや、まぁそれは良いとして、居酒屋で飲んでた筈なのですけど、海なんかないトコだったのにえらく周りが海になっているんですが」
「昨夜はどうも、楽しいお話でした」ボートの端に向かい合わせに座ている男は答えた。「少し飲みすぎてたみたいですが、覚えてらっしゃいませんか」
「その……」改めて周りを見ても陸地の影がなく海の水だらけだ。「少し記憶が飛んでいるみたいですね。思い出すのはできなくもないんですけど、僕、何かしてしまいましたか」
(この質問はいささかおかしい、酔っ払っているうちに何かしたかというよりも何かされてこんな状態になっている方だとおもうのだが……)
「したと言えばしたのですけど」男は思い出しながら言葉を考えつつ答えた。「貴方が酔い潰れてしまってから今に至るまでは、まあ私がやったことにはなりますね。それでも責任自体は貴方にあるとは思いますよ」
「酔ってる人間が無罪というわけではないと思うんですが、さすがに何か言っても真に受けるというのはないんじゃないですか」自分の責任を棚にあげつつ男に言った。「こんな風に僕をボートに乗せてどこに連れてくつもりなんですか、早く元のところに帰してくださいよ」
「どこに連れていくも何も……オールもありませんからね」男は両手を上げて見せた。「確かにボートに乗せたのは私ですが、どこかに連れていこうなんてのではありませんでした」
「……これ、動力もないようですけど、漕ぐものも無いならどこにも行けないじゃないですか」
「まあそうですよね」
「どうしてそんなに落ち着いてられるのです」
「まあ」少し困ったような顔で「私がやったことなので」
話しかけちゃいけない人だった、と僕は悟った。
確か昨日は会社で、取引先との最悪の事態に職場での最悪の仕打ちが重なり、事態はどうにか収集されたもののどうにも納得がいかず、気分を鎮めるために久しぶりに繁華街にあったバッティングセンターを回ろうと思ったら、よもやの閉店で空振り。
気分が治らないまま帰宅する気にはならず、目についた居酒屋に飛び込んだ。
個人経営で少し古びた店、カウンター席の奥で一人飲んでいると無性に腹が立ってきて、隣に座っていたこの男に……
「あの、ところで僕、何か失礼なことしませんでしたか」気になって尋ねてみた。
「え、いやぁ」穏やかな笑みを浮かべつつ男は言葉を探していたけれど、「ん……」と黙ってしまった。
僕はボートの上で土下座をし額を船底に擦り付けた。
「まぁまぁ。私はそれほど怒っていません。お酒をだいぶ召し上がってエンジンがかかってしまったせいだと思いますけど。さすがに顔に傷のある人を指差して「ジッパーだジッパーだ」とかはまずかったですね。代わりに私が拳を喰らいましたが」
「本当にすみませんでした……二度とこんな飲み方はしません、許してください。……それはそれとして怒ってらっしゃらないということですが、この海原まで僕を乗せてきたのは、僕、ここで沈められちゃうのでしょうか」
「ですから私は怒ってませんから。それに言った通り、私はボートに乗せただけですよ。こうしたのは私ですが、貴方の希望を叶えただけです」
「希望を叶えたって。……なんか悪魔みたいな言い回しですね」
男は無言で笑みを浮かべた、否定も肯定もせず。
いやそうなると、この状況は僕がリクエストしたってことなのか。
何をどうしてこういう状況なのか、とっさには思い出せない。
魚介や海鮮メニューを頼んだ記憶を朧げに思い浮かべたけれど、ボートで釣具もないのだからシーフード三昧ではあるまい。
「あのう、あなたが悪魔だとしたら、僕は何かを願って代償に魂か何かを要求されるわけですよね」
「そういうのもありますけど、悪魔の取引の代価というのは様々です。魂のみだとかは後世の創作で、見返りのバリエーションは悪魔ごとに様々にあるのものなのですよ。昔は簡単に家畜一頭から応じた例もありますし、取引した人間も酷い報いを受けたりせずに利益を得た例だっていくらもあるんです」
「僕の場合は代価はどうだったのでしょうか」
「私が特に求めているものは面白い話というかそういうものなので、昨夜のお話だけでほとんど結構なのですよ。大いに楽しませていただきました」
生憎と記憶がとんでいるのだけど、悪魔を満足させる面白い話なんて、どんな話をしてたものなのか……僕は爆弾を刺激しないように少しずつ話を聞いてみた。
「どんな話をしたんですかね、僕」
「会社に対して思いつく限りの罵詈雑言に始まって、取引先をどんな風に困らせて、気に入らない人間をいかに始末するか」
「……いやだなぁ、初対面の人にそんな話をしてたんですか。もちろん本気にしてませんよね?」
引きつった顔で聴いたけれどそれには同意はもらえなかった。「まあ、好き嫌いや頭にくることはあってもさすがに何かをやらかそうとは思いませんよ」
「人間の裏面なんて、誰しもそういうものが渦巻いているのは容易に想像がつくでしょう。綺麗事ばかりでは済まないことが世の中には多いのですから当たり前です。私は面白いと思いますよ、人間の愚かで醜い部分というのは」
巡り合わせでとんでもないのと出会ったわけだ……それがどうして今の状況に結びつくのか。
「例えば……誰かの不幸を本気で望んだ願い事をやってしまったとか……」僕は血の気が引くのを感じつつ確かめた。
「仕返しをしたい人は随分いらっしゃったようですけど、願い事にはしてませんでしたよ。特定の誰かしらを狙うとかではありませんでした」
「ならば……」僕は慎重に尋ねた。「僕は何を願ったんです」
「貴方は」と言いつつ男は少し間を置いた。「私は面白い話とか興味深い話には目がないんですよ。貴方が何でああいう発想をしたのかが気になるんです。その意味では私も尋ねたかったことがあったので、わざわざこのボートに同乗して貴方が起きるのを待ってたんですよ」
言葉を聴きつつ、わずかに記憶が呼び起こされた。
居酒屋で半ばふらつきながらトイレに立った行き帰り、店の壁にフルカラーの世界地図が貼ってあったのが目についた。
陸地と海が色鮮やかに分けられていた。
「何となくですが」僕は確かめるように男に話した。「地球の地表の凹凸を全て逆転させられるか、なんて言ってた。あなたが悪魔だと身分を明かしたから」
「よくできました、ご自分で思い出せましたね」男は満足そうにうなづいた。「貴方の希望通りに逆転させました、この通りです」
「ちょっと待ってください、それならここは」
「言った通り、私はあなたをボートに乗せただけなんです。私たちが一緒に飲んだ場所は海抜のマイナスの位置にあるのです」
「海の下に」
「全てですね」
「他の人たちは……街の、世界の人たちは」
「水の下ですね」
「あり得ないでしょう」呆然として僕は言った。「酔っ払いのたわ言一つで世界中の人間を葬り去ったなんて。悪魔でもやって良いことと悪いことがあるでしょう」
「貴方が希望したことなので」
「いや、普通なら冗談だって分かるでしょう。そんなこと本気で望まないですよ普通なら。そんなの普通の人間ならわかるでしょう」
「私は悪魔でしたから、どうにも」
「……僕のせいで」ボートの下の水を覗き込んだ。この下にみんな沈められてしまった。「夢でしょう、これは」
「お酒はほどほどで嗜むのが良いですよね」男は心なしか僕の反応を嬉しげに感じている節があった。「一体、何であんなことを思いついたのです」
「世界地図を見た時に」僕はうなだれて答えた。「陰影をつけて立体的に印刷された地形を見て思ったんです。地図は上から光が来て下に影ができる。……昔、上から見下ろした卵の並んだ写真があって、画面上から光が当たったように見ると影が下にできて卵があるのが分かるんです。ところがそれを上下を反転させると卵の影だった部分が穴の影になって卵が消えた空の窪みになってしまうんです。……」
悪魔は黙って聴きながら思い浮かべているようだった。
「あの世界地図を逆さまにしてみたら、世界中の山々が全て窪みになって、頂上が地面の底になるんじゃないかって……考えたんですね、その時は」
「なるほど『クレーター錯視』のことですね。そこから来ていたのですか。実際は地形の逆転で海水が窪みへと流れたわけですが」
「……取り消せませんか、元に戻すことって」
「それはできません」不可能なのか、出来てもあえてやらないのかがどちらの意味か分からなかった。
「全部、夢だったことになりませんか」
「逆ですね、昨夜までの世界、現実が夢だったことになったのです」男は言った。「昨夜までの場所は海の底に沈みましたが、街も人々も夢の存在になったのです。今は海の中で幾万の魚たちが泳ぐばかりです。代わりに……」言いかけて男は言葉を切った。
船影が海面に見えた。
そちらを見てから向き直るとボートから男の姿は消えていた。
漁船に発見してもらい、ボートから引き揚げてもらった。
どこかで泥酔して乗り込んだボートで眠り込み、沖まで流された……という曖昧な話で一応は筋が通ったことになったが大分絞られた。
陸地に戻ると世界はほぼ昨夜のままの様に見えた。
自分のアパートにも帰り、一日無断欠勤をやらかしたことを会社にはだいぶ叱られたが前日の件も思い合わせたものか、幾分か同情的な見方もされ、一応、どうにか職場復帰も許された。
ただし。
僕にとって世界は変わっていた。
地図をみたら明らかだ、かつての陸地と海洋は逆転していた。
僕らのいる場所は巨大な湖だったのが、ここでは「日本列島」という島になり、最深部だったところも富士山という山になってそびえているというのだ……。
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