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その日、僕は七年付き合った彼女にプロポーズするつもりだった。
少しいいレストランでディナーの後、雰囲気が良いことで知られているこの展望台まで来て星空を共に眺め、そこで指輪を取り出してなんてことを考えていた。
わざわざ週間天気予報で何日も前から天気を確認し、今日はきっと晴れるであろうと確信をもってデートに臨んだ。
途中まで、というかディナーが終わるまでは晴れていたのだ。
レストランから出て見上げた空には、綺麗な月も浮かんでいた。
ところが、展望台についた途端だった。バケツをひっくり返したような大雨が降り出したのだ。
仕方なく展望台にあった待合所のような屋根のある所へ避難した。
この日のために買ったジャケットやスラックスもすっかり濡れてしまい、彼女は諸々身だしなみを整えると言ってトイレへ行ってしまった。
がらんとした待合所の中で待っていたのがついさっきのこと。
そして今、僕の目の前には信じられない人が立っている。
「よう」
その人は、七年前とちっとも変わらない笑顔で僕に向かって片手をあげてきた。
「い……糸魚川さん?」
大学時代、同じ文芸サークルに所属していた先輩の糸魚川芳夫先輩が現れたのだ。
ありえない事だった。もちろん、偶然とかたまたまとか奇跡的にとか解釈が色々と出来ることは否定しない。だが、問題はそれだけじゃない。彼の姿が七年前に姿を消した時と全く同じだ、というところが何よりの問題なのだ。
「信じられないって顔だな」
そう言って笑う先輩に対して、僕は言葉が出てこなかった。
「まあ、そりゃそうか」
そんな僕を見て、先輩は苦笑いを浮かべて見せた。
僕はどうにか言葉を絞り出して、彼に尋ねた。
「い……今まで……どこ……に?」
「どこにってそりゃ……書置きしたろ。山に行くって」
確かに書いてあった。しかもその紙きれはご丁寧に部室に置かれていた。先輩が持っていた部室のスペアキーとセットで。
「俺はあの日、彼女に振られた。結構本気で好きだったんで、随分落ち込んだね」
夢なら早く覚めてくれ。
心の中で強く願う。
「残念だけど、夢じゃねぇよ」
「え?」
「何もかもが嫌になってな。まあフラれた無念だけ伝えとこうと思って、あんな書置きして、んで、実際山に行ったんだ」
「……今、なんて?」
「それより、随分いい格好してるじゃないか。デートか?」
こくん、と僕は一つ頷いた。
「相手は今も百合子?」
「そ、そうです。あの……」
「いや、良いんだ。確かに百合子は俺の元カノで、こうなった原因でもあるからな。俺にだって原因はあったのさ」
先輩は一瞬遠い眼をして、それからすぐに僕のほうへと視線を戻した。
「けどな、一つだけ確かめたいことがあるんだよな」
「か……確認?」
「本来なら二度とお前たちに会うことはなかったわけだが、たまたま俺のテリトリーに入ってきてくれた。千載一遇のチャンスとはこの事だと思ったね。それでまあ、いてもたってもいられなくなったというわけだ」
「先輩は何を言って……」
「ん、ああそうか。すまんな。山へ入った俺はいろいろあって、今はこのあたり一帯の神をしているんだ」
「か……神?」
「そうだよ」
先輩はそう言って軽く肩を竦めて見せた。
大したことじゃないとでも言いたげだが、それ以上ににわかには信じられない話だった。
「お前、展望台でいきなり大雨に振られたこととか、この待合室が無人なこととか、なかなか百合子がトイレから戻ってこない事とか、何より俺がお前の目の前に現れたことが、全部偶然だとでも思ってるのか?」
羅列されてみると、確かにおかしな状況だった。
「全部俺がセッティングしたんだよ。お前と話をするためにな」
「そうまでしてしたかった話って……」
「お前と百合子が浮気してたのかどうかってことだ」
僕の心臓が大きく一つ脈打った。
冷汗が溢れ出し、唇が震えだすのを感じた。
先輩はまっすぐ僕を見つめている。果たしてどう答えるべきか。
「先に言っておくが、今の俺は神だ。神に対して嘘をつくことはお勧めしないぞ」
先輩にそう言われ、僕は喉元まで出しかかった言葉を慌てて飲み込んだ。
「正直に答えてくれ。お前と百合子は浮気していたのか?」
「……はい」
僕は両眼を閉じ、頭を下げながらその言葉を口から出した。
「……ありがとう、正直に答えてくれて。お前の心も同じことを言っている」
僕ははっとした。
そうだ、夢なら覚めてくれと心の中で祈ったあの時、先輩はこう言ったのだ。
「夢じゃねぇよ」
言葉にしていない僕の心を読み、先輩はそう言ったのだ。
「とは言ってもだ、やっぱり完全には許せねぇ。悪いけど、百合子は返してもらうぞ」
「え……ちょ……」
待ってください、と目を開けて手を伸ばした瞬間。
僕の手に当たったのは車のハンドルだった。
「え? え?」
そこは運転席だった。
外は完全に夜で、空には月と星が見える。
来ている服に濡れている感触はなく、慌てて付けた車内灯の光で確認した限りでは、デートに着ていった洋服姿だった。
「ゆ……百合子さん?」
助手席を見ても彼女の姿は見当たらない。
ポケットを確認すると、渡そうと思っていた指輪もなかった。
「一体どうなってるんだ……」
考えた僕の頭に、先ほどの先輩の言葉が繰り返された。
すなわち、返してもらうぞというあの言葉。
彼が本当に神であるならば、百合子さんは山の神に連れ去られたと言う事になる。
そして、それが信ぴょう性の高い事実だというには、あまりに条件が揃いすぎていた。
あの時、もし僕が嘘を付いたらひょっとすると……。そう考えた途端、とてつもなく怖くなった。一刻も早くこの場を立ち去りたい衝動に駆られ、僕は慌ててエンジンのスタートボタンを押した。
幸いにも車はスムーズに起動してくれた。ヘッドライトやテールライトに浮かび上がった景色から判断したところ、どうやら展望台に続く峠道の途中の崖際に車は止まっていたらしかった。
もちろんそんなところに車を置いた記憶もなく、僕はますます怖くなり、百合子さんに悪いと思いつつも大急ぎで車を走らせ、山を下りてしまった。
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