征服

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 踏みしめた雪面の先には、雲海が地平線まで続いていた。濃密に澄み通った蒼いグラデーションの下、一面の白の中に、灰色を帯びた峰がいくつも突き出ている。連なった山々のうちに、いま立つこの地より高いものは、ひとつとしてない。  天を仰ぎ、ボンベから供給される酸素を大きく吸って、俺は拳を突き上げた。  ここが正真正銘、てっぺんだ。ロシュケント山脈の中で、最も天に近い場所。  叫びたい気持ちをしばし抑え、荷の中からカメラと軽量の三脚と、そしてスマートフォンを取り出す。喜ぶのも仕事のうちだ、無駄打ちはできない。  三脚の先を、雪に埋めて固定する。カメラを据える。スマートフォンを立ち上げる。連絡先――「サテラコネクト広報室」をタップする。数秒ほどの待ちの後、回線は繋がった。  さあ、ようやく、ぶちまける時だ。 「皆さん聞こえますか、高城洋志(たかぎひろし)です――」  三脚上のカメラに向き合う。口元を緩めれば、感極まった声は勝手に出てきた。 「――現在、L3(エルスリー)山頂です!」  スマホの向こうに大歓声。  担当者の弾んだ声が、返ってくる。 「高城さん、L3単独登頂成功、心からおめでとうございます! 電波状況はいかがですか?」 「ありがとうございます! バッチリ四本立ってます! 音質もクリアですね、都心で通話するのと同じくらい……いや、雑音がない分ここの方がよく聞こえますよ」 「それはよかった! では高城さん、ここ日本で応援している皆さんへ向けて、今のお気持ちを一言」  電話越しに促され、俺はカメラへ向けてガッツポーズを作った。  用意していた言葉を高らかに叫ぶ。まずは、妻へ。 「満智子(まちこ)、ありがとーう!」  拳を振り上げ、ほとばしる感慨をそのまま声に乗せる。 「日本の皆さん、ありがとーう! 命懸けのチャレンジを応援してくれた、すべての方々にありがとーう!」  遠隔で伝わってくる歓声。今回のプロジェクトも無事成功だ。  登頂難度の高さから「絶望の山」として知られる「L3」。数知れぬ登山家の命を奪ってきた、標高8597メートルの山の頂上から、衛星通信によるスマートフォン通話を行う――CM撮影としてはいささか高コストな試みだが、「冒険家高城洋志による、L3単独登頂チャレンジ」の話題性と組み合わされば、広報として十分元は取れるとスポンサー殿は判断したらしい。結果として俺は、衛星通信運営会社「サテラコネクト」と提携し、この高峰へ登ることになった。  俺にとっても悪い話ではなかった。資金面のみならず、提供された最新鋭の通信機器や位置情報検索機能は、危険な環境で大いに助けになった。それに――  と、俺の思考を遮るように、電話の向こうから女の声がした。 「洋志、おめでとう」  妻だった。日本で聞き慣れすぎた声は、久々に耳にしても新鮮味がない。 「ありがとう、満智子。この成果も、支えてくれる君のおかげだよ」  用意していた決まり文句を返せば、サテラコネクトの担当者が割って入ってきた。 「満智子さんは毎日、神社にお参りしてご主人の無事を祈っておられたとのことですが。今、高城さんにかけたいお言葉をどうぞ!」  一瞬の間をおき、妻の声。 「洋志、無事に帰ってきてね。待ってるから」 「ああ、もちろん。無事に帰ってこその冒険だからね。……そろそろ切って大丈夫ですか?」 「はい、ありがとうございました。無事の帰国をお待ちしております!」  通話が切れた。  このスマートフォンは、位置情報の検索等にも使用するものだ。山頂での通話実演が今回最大の目的だとはいえ、長話で必要以上に電池を消耗させるわけにもいかない。  それに。  この壮大な景色の中で、あのつまらない女の声など、長く聞いていたくもない。  カメラの電源を切り、俺はあらためて周りを見回した。  雲海の上に連なる高峰。かつて欧米人によって、それぞれに測量番号が付けられた。東側から順に、ロシュケントNo.1、ロシュケントNo.2、以下同様に。L3は「ロシュケントNo.3」の略である。清らかな峰には人の手が入っておらず、自然そのままの白が、岩の灰色を覆っている。まるで処女の肌のように、眺望の一切に穢れがない。  いま自分は、この景色を独占している――この実感こそが、登山の喜び。  同時に、いつもの嗜虐心が少々湧いてくる。  登山靴の重い靴底で、ぐりぐりと雪を踏む。何度も何度も、踏む。  処女の肌に痕を付けるかのような、この儀式が、たまらなく心地良い。  この山頂を、この山を、俺は征服したのだ。  雪の地面を、捻じるように繰り返し踏みつける。蹂躙の証を、刻み付ける。  征服者にだけ許された快楽を心ゆくまで味わいつつ、俺はこれまでの道のりを――冒険家としての軌跡を、思い返した。
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