征服

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 覚えているかぎりにおいて、大学時代、登山同好会へ入った理由は特になかった。特段興味のあるサークルもないまま、桜の舞うキャンパスをぼんやり歩いていたところ「ちょっと重装備のハイキングみたいなものだから」と声をかけられた。せっかくの大学生活、無所属もつまらなそうだと思い、気軽に承諾した。つまらなければすぐ辞めるつもりだった。その程度の動機だった。  だが。  最初の言葉は、新入生を釣るための甘言だったと、すぐに思い知らされた。  新入生歓迎の登山で、俺は、標高1000メートル足らずの県内最高峰さえ登り切ることができなかった。受験勉強で弱った身体はすぐに息切れし、俺は道中の山小屋で独り待機することになった。  退会防止のためなのか、唯一の女子会員であった会長の彼女が、待機に付き添ってくれた。当時の豊川満智子(とよかわまちこ)は、黒髪ショートの快活そうな女子大生だった……そうだな、あいつにも、若さが輝いていた頃があった。 「高城くんも、きっと強くなれるよ。トレーニング次第で」  取り残された俺に、満智子はなにかと話しかけてくれた。気落ちさせないようにとの配慮だったのだろう。だが、気遣いが露骨に透けて見える一方的な世間話は、雑談としてさえ成り立たず、俺はただ黙るしかなかった。  あまりにも惨めだった。  同時に、目の前で話しかけてくる女が腹立たしかった。女をここへ置いていった会長たちも、すべての原因を作った自分の虚弱さも、なにもかもに俺は苛立った。  退会の二文字がちらついた。だがここで逃げれば、俺は一生負け犬のままなのだとも、思った。  屈辱の新歓登山の後、俺はひたすらに身体を作った。  大学構内をランニングし、自宅ではダンベルを持ち、プロテインを飲み、筋トレ動画を実践し、数か月後には見違える肉体ができあがった。  単独で登り直した例の山は、あっさりと踏破できた。隣県のさらに高い山も、難なくクリアした。  約半年ぶりに登山同好会の部室を訪れれば、一同はみな驚いた。半年顔を出さなかったのだ、幽霊会員扱いになっていたのも不思議はない。ともあれ俺は、会での次の登山に参加希望を出し、受理された。  当日、俺は会の誰よりもタフだった。安定した歩みを常に止めることなく、メンバーが休憩を求めれば、息も乱さず冷ややかに皮肉を投げた。他人の荷物の一部を引き受けさえもした。この場でいちばん強いのは俺だと、誰しもが認めざるを得なかった。 「高城くん、強くなったね」  打ち上げの席で満智子が言った。  にこやかにビールを注いでくる笑顔に、腹が立った。新歓登山の日、山小屋で見た微笑みと同じだった。愛想と気遣いで固められた、嘘くさい笑い。  俺はまだ、前へ進めていなかった。この笑顔に見つめられているかぎり、俺の屈辱は消えないのだと、どこかで感じていた。  数日後、満智子を呼び出した。意外にも素直に応じてくれた。会長に断りは入れていないらしかった。  居酒屋で軽く飲み、帰ろうとした彼女を引き留めた。買ったばかりの軽自動車に押し込み……俺のものにした。  涙でぐちゃぐちゃになった顔を、無残に蹂躙した身体を、俺はスマホで連写した。写真を突きつけて、言った。  俺のものになれ、と。  以来、豊川満智子は快活に笑わなくなった。翳りを含んだ目で薄く微笑む彼女は、俺だけのものになった。  俺たちは大学卒業と同時に結婚し、彼女は高城満智子になった。  やがて、俺の冒険家としてのキャリアが軌道に乗り始めると、周りには有象無象の女が群がるようになった。それでも彼女は何も言わず、ただ翳りのある微笑みだけを浮かべていた。  支配と被支配の関係を、建前の夫婦愛で糊塗し、俺はスポンサー向けに愛妻家の虚像を纏った。  名声には多少の虚飾も必要なのだと、俺に関わる人間は理解してくれているだろう。俺はそうして、日本を代表する冒険家としてのステータスを得た。  思えば遠くへ来たものだ――感慨にふけりながら、俺は下界を見下ろした。  雲海から突き出るロシュケント山脈の峰々は、雪を被って白い。さながら女の双丘だ。  日本で待つ柔肌の群れが思い出され、身の内に興奮の火が灯る。だめだだめだ、こんなところで興奮しても処理する手段がない。いましばらく我慢しろ、帰国すればいくらでも欲は満たせる。金と力のある所へ、蜜を啜りに来る連中はいくらでもいる。  ロシュケントの他の山へ、再訪する機会はあるかもしれない。すべてはスポンサー様の意向次第。この靴で山頂を征服すれば、金が生まれる。生まれた金で、俺は群がる女どもを征服する。  白く険しい峰、白く柔らかい双丘。どちらも強い征服者を待っている。だから俺は応えるのだ。望まれるから、与えてやるのだ。  サングラス越しに天を仰ぐ。雲間に浮かぶ山は、蒼穹の下、踏みしだかれるのを待つように、白く静かに輝いていた。
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