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サテラコネクトの社旗を広げ、カメラの前で数度振ってみせた後、俺は周囲を片付けた。あのつまらない女に言われるまでもなく、帰路は重要だ。報酬は、無事に帰ってこそ受け取れる。
山頂を後にし、来たルートを引き返す。氷壁や脆い足場など、危険は変わらずそこに在る。行きと比べて何かが違うわけではない、が、一度クリアした安心感は少しだけ気持ちを軽くしてくれる。もっともそれは、時として油断を誘う諸刃の剣にもなる。
氷の道を慎重に抜けたところで、スマートフォンを取り出す。サテラコネクト提供の専用アプリで天候を確認すれば、一時間ほど後に強い降雪があるとの予測だった。露営が必要だろう。手近な吹き溜まりに雪洞を掘り、避難する。
洞に身を隠してまもなく、外から激しい風音が聞こえてきた。そのまま進んでいれば、遭難の危険は高かっただろう。文明の進歩にあらためて感謝する。
「ねえ」
不意に背後から声がした。振り向けばなぜか、黒髪ショートの快活そうな女子大生が笑っていた。今は日本で俺の帰りを待っているはずの――いや、その古女房の、初めて出会った頃の姿があった。
低体温症で幻覚でも見ているのか。己を疑い、手足の温もりを確かめてみるが、幸いにもまだ異状はない。
妄想にしてはいやにはっきりとした、女子大生の満智子が、昔と同じ顔で微笑みかけてくる。
「高城くんとこうしてお話するの、ひさしぶりだね」
声もあの頃と変わりない。だが何を言っているのか。結婚してこの方、二人での会話などいくらでもあっただろう。大抵は家計やら何やらの管理の話だったが。
やはり何かがおかしい。黙っていると、満智子の姿をした何者かは、さらに話を続けた。
「強くなったよね、高城くん。……私、強い人は好きだよ」
どこか面映ゆく、視線を外す。するとその先には、馴染みのアシスタントディレクターがいた。テレビ局の取材で知り合い、何度か飲み、二回か三回ホテルに持ち帰った。金さえ十分に渡してやれば何も言ってこない、いい女だ。
「高城先生。今日はご都合、いかがですか?」
胸元に手を遣りつつ、流し目を送ってくる。
俺は何を見ているのか――さらに反対側に目を逸らせば、こちらには親しいクラブのママが。
見回せば雪洞の中は、俺がどこかで関わった――身体での関係を持った女たちでいっぱいだった。
「高城さん。待ってるんですよ、私たち」
「先生の……お好きなように、されることを」
女たちが一斉に笑う。
若い満智子が、爽やかにショートヘアを揺らして微笑む。
「高城くん。強く……なったんだよね?」
悪戯っぽい目元に、憐れみめいた色があるような……気がする。
胸の奥がひどく疼く。力を見せろと喚き立てる。
俺はあの頃の俺じゃない。山も、女も、なにもかもをこの手に収める征服者なのだ――
俺は、ウェアの前面に手をかけた。熱に浮かされているのはわかっていた。だが、踏みしだくべきものどもを前に、引き返すことができようはずもない。俺は、俺なのだから。不敗の冒険家・高城洋志なのだから。
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