じい様はボケたのか

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 朝霧謙久、魂の主張を張り上げます。 「いーやーだー!」 「謙久、それが三十過ぎてやることか」  親父の疲れた声に、力一杯の抵抗を込めた魂の叫びは叩き落とされた。  それでも食卓テーブルの脚にコアラよろしく抱き着き、抗議のポーズを続ける。  親父の瞳から温度が一切感じられないが、そんな程度で屈していたらニートなどやっていられない。 「残暑厳しい昨今に、なんでわざわざド田舎に出向かなきゃならんのよ!」 「お前は涼夏だろうが、木枯らしが吹こうが、春一番が吹こうが、どこにも行かんだろうが」 「わかってるじゃん」  理解を得られて何より。頷きをひとつ作る。  親父のこめかみがピクリと跳ねたのを見て、何かを言われる前に言葉を被せる。 「じい様がボケたかもしれない、だっけ? 施設に入ってもらった方がいいんじゃない?」 「必要があればな。受け答えははっきりしているし、ボケたとは思えなかった」 「じゃあ、ボケてないじゃん」 「だが、何か……しきりにな、母さんの名前を呼んでいてな」 「じゃあ、ボケてんじゃん。ばあちゃん死んじゃってるのに」 「だから、わからんので見て来いと言っている」 「親父が行くべきじゃん。親父のお父様でしょうに」 「これは、お前のお爺様の話だ」  親父がムスっとそれだけ応える。  はっきりとしない状況で会社を休む理由としては弱い。  そして家には手ごろな暇人が居る。  と、そういう訳だ。  だが断る。都会っ子を田舎に急に放り込むな。死ぬぞ。  決意の再確認をしたところで、家の玄関が開いた音がした。 「ただいま」  よく通る聞き覚えのある声がしたと思えば、そいつはすぐにやって来る。 「兄貴、何してんの?」 「中年ニートの主張」  弟の謙哉だった。近所に住んではいるが、嫁さんと子供が居る。こんな朝早くに用もなく来ることはないはずだ。 「というか謙哉こそ何で来たん?」 「爺さんボケたかもって聞いて、俺が様子見に行こうかなって」 「はあ? お前はダメだろ。子供生まれたばっかで家空けんなよ」 「でも親父は仕事あるし。俺は育休取ってるから」 「育休なら子育てしてろよ。いいよ、俺が行くから」  テーブルの脚を離してのそのそと立ち上がる。  ちらりと親父を見ると、にやりと口角を上げた。  このお父様、やりやがりました。 「旅費は親父持ちだからな」 「端からお前に金回りの期待はしてない」  疲れた素振りで嫌味たらしく言う親父の横で、謙哉が仕方なさそうに笑った。
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