プシケに抱かれ

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アンデルセン、『プシケ』を想い ◇ ◇ ◇ 「ただいま。」 私はその子にささやいた。 思えば、この砂浜に帰ってくるべきではなかったのだ。 私とこの子が住む世界は、もう既に違っていたのに。 変わらない純真無垢な瞳。 屈託のない笑顔。 私がとっくに失ってしまったものだ。 蛹(さなぎ)になり、蝶に生まれ変わり、 私は美しくなった。 だから、この子は私との再会を喜び、愛してくれると思い込んでいた。 彼が愛したものは一つだけ。 彫刻で表現した、蝶になる前の私。 この子と同じ、純真無垢な瞳、屈託のない笑顔の私。 二度と取り戻せない、子供の頃の私。 私は、かつての自分に嫉妬した。 激情にかられて彫刻刀(ノミ)を向けてしまった。 それを。 まさかこの子が、彫像をかばうなんて。 いや、私はそれも予想していたのではないか。 でも、そのままノミを突き出した。 私は、いったい、どんな結果を望んでいたのだろうか。 あの夏に還りたい。 でも二度と還れない。 結果なんかどうでもよかったのだ。 今となっては、この子、キルトを抱いて海に入り。 命が消える、まさにその瞬間に味わった恐怖と怒りを浄化し。 消し去ることしか、できない。 この子のために。 いいえ、正直に言えば、私のために。 (了)
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