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「おかえりなさい、あなた」
妻はいつもエプロンをたくし上げながら、パタパタとスリッパを鳴らして迎えに出て来た。
「お風呂にする? ごはんにする?」
それを聞けなくなって久しい。
ふらりと散歩に出たバイパス道路で、無謀にスピードを出していたトラックに、俺は撥ねられた。
何がどうなったのかわからんが、俺は次元の違う、空気も密度も重力さえも歪んだ世界に飛ばされた。絶えず砂埃、強風、薄暗く何もかもが攻撃的で、おそらく俺が食い物としてしか認識されていないような、そんな場所。
座ることも休むことも、もちろん眠るなんてもっての外、絶えず耳をそばだて、気配に敏感に、襲ってくる敵から逃げなくてはならなかった。
日も登らず、灯もなく、どれだけ経ったのか時間の感覚がないまま長い長い間逃げて戦って生き延びて、そして。
光差す通路を見つけ出した。
道は三つあった。一つ目は一方通行らしくどう進もうと頑張っても押し返された。
「ʩëgĢĠɛʚɝɣʩʩʩ……」二つ目の道中で耳に届いたそれは、どこかで聞き覚えのあった謎めいたつぶやき。そこは進むことはできたが、気づくと分かれ道まで跳ね返されていた。
残るはしかたなく三つ目のみだった。そしてその道こそが、見覚えのある景色に通じたのだ。戻りたくて帰りたくて会いたくて。俺のいるべき場所に。
ああ、と、懐かしい門扉を押し開け、背の高いドアにすがりつく。そして、絶対になくすまいと首から下げていた鍵を取り出した。
……ささらない? 何度試そうが、丁寧に鍵穴に合わせようが。
――鍵が、違う?
いや、どう見ても、俺の建てた間違いなく我が家だった。いつもこの鍵でドアを開け……
と、思い当たる。そうだ、家の鍵は持ち歩いていなかったのだ。今手にあるのは、会社のロッカーかどこかの鍵だ。
「おおい、帰ったぞ!」
そうだ。そう言うと、スリッパの音が近づき、重たいドアをガチャリと開けて妻が笑顔で迎えてくれたのだ。
そう思い出した俺は、声を張り上げた。
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