ホルモンを焼け

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 網の上でホルモンが残虐な刑罰に遭っているように、身をくねらせてじゅうじゅうと音を立てている。「こういうのに感情移入しちゃったりすんの、熱そうだなあとか、痛そうだなあとか?」ジョッキをあおり口許を手の甲で拭いながらかの女は訊いた。口紅などとっくのとうに落ちている。  店員呼び出しボタンを押し、空になったジョッキでテーブルをごんごんと小突く。「ビール! ねえあたしのビールどこ! 来ないなら取りに行っちゃうよ!」  かの女は朗らかに飲むひとだ、と印象付けた会社の飲み会は、いわば外向きの顔だ。実際こうして飲んでみずに、ただのウワバミであることにどうして気づけよう、いや気づけまい。しこうしておれの休日は潰えてゆく。だが文句はいえない。いうべきでもない。この席に誘ったのはおれなのだし、割勘でもあるし、少しは目をつむるべきだと、世間一般の人間はいうだろう。  だから大瓶ではなく生中だけをぐいぐいと水か茶のように飲み続けることにも、文句はつけられない。飲み放なんだから別にいいじゃん、といわれるのが落ち。そんなことは目に見えている。  ただ今後もし――もしもだよ、こう、吐くならその、お行儀よく吐いてほしいな、と淡い期待を抱くのみだ。 「あんたもほれ、さっさと飲みなよ。なによ、チビチビチビチビ。残尿みたい。前立腺はどうしたの? ビールがかわいそうじゃないの? ――ああ、あたしはビールのビール姫! こんな飲み方されるくらいなら、ひと思いにコロシテ!」  そうだね、とあいまいに相槌を打つ。  話すひとをチェンジするなり、時間を変えてランチに誘うなりしないと駄目だ。もっとも、そのいずれもおれのチキンハートには荷が重い。だもんで、今は目の前の問題、このひとの胃袋なり肝臓なりが満足するまでは、切り上げられそうにない。 「だいたいさ、その、あんたのHSP? って、病気なの? それか、発達障害みたいなの? 治るの? 移るの? 死ぬの?」  移るとかになったらそれは感応精神病だ。  さて時に、おれはHSP――日本語の頭文字で「非常に繊細パーソン」と訳される特性を持っている。これまで非常に繊細パーソンならではの苦労を重ねてきたのだが、学校でも職場でも、周囲のだれにもなにも話していないし、第一そんな雰囲気でも根性でもなかった。なにか配慮を求めるつもりすらなかった。期待すればするだけ、裏切られたら痛い目を見るのだ――でも、あなたには少しばかり知らせたい、とこの席に呼んだ。  かの女は裏表がないとか、口が固いとか、同期であるとか、理由はいくつかあった。アルコールを入れてやれば楽しいひとになる、という事前収集したデータに基づいてもいる。  心のなかで訂正すると、HSPというのは当然のごとく英字の略称なので「非常に繊細パーソン」などという馬鹿馬鹿しい略ではないし、目の前のかの女はやはりというか何というか、そのHSPの対極にいるみたいな人物だったし、気さくな人物というだけで付き合ってもないのに焼肉屋でサシ飲みするなど、これは 「ちょっと、ホルモンが炭化してる。残尿にかまけてないで食いなよ、ほら早く」ひとの思考を遮ってかの女は黒こげのホルモンをおれの皿に投げ入れ、つぎのジョッキをぐっと飲む。  どうにもこうにも、うまくいかない。  トイレのついでに薬でも飲もうか。 「誘ったのはあんたなんだからさ。行き倒れたら介抱してよね」なるほど、そういいながらあなたって、とても幸せそうですよね? 「行き倒れたらって、行き倒れる予定があるの?」  「ん、神のみぞ知る、かな」といって盛大なげっぷを放つ。  まあ――もし行き倒れたらカネ握らせてタクシーに押し込んだのち手でも振って見送って、明日からの勤務のためウコンドリンクでも飲みますけど。 「HSP、ただ繊細なだけじゃないんだよ。人間関係、ってか生きることすべてにおいてスタミナが三倍速で削られるんよ。結果的に専門用語でいうところの易疲労とかそういうの。勤務中、給湯室とかでこっそり薬飲むなりしないとまともに働けないの、知ってた?」  かの女はむーん、とか、ほーん、などとうなり「そうだねえ」といい、通りかがかりの店員さんに「あ、すみません、網お願いします」といった。 「あんた、それ、薬って」 「やばいやつじゃないよ。病院行って三割負担で出されたやつ。合法」 「でもさ、駅前で売ろうと思えば高く売れない?」 「それは発想が非合法」  かの女がぴかぴかの網に牛脂を引いてホルモン軍を展開させている。 「てかさ、なんでそれ、あたしに話そうとしたん?」訊かれたので理由を話してみた。今となっては期限切れの理由だ。だって目の前のあなた、予想を裏切ったじゃないですか。  聞き終わるとかの女はおとがいに手を当て「でもたぶん、それ、明日になったら忘れてる」といい、「だから、間違いを犯しても証拠さえ消せば、事実上なかったことになる」と続け、さらに「ヤリ目でもいいっちゃいいけど、ゴムはしてよね」とまでいったのはいささか心外に思えた。 「どうでもいいよ、そんなこと」とおれが不機嫌そうにいったのが気に食わなかったのか「あたしに魅力がないとでも?」と煙草に火をつけながら抗弁をする。 「吸う前になんか、ひとことないの?」 「あのねえ、ここ焼肉屋さんだよ? 動物性の煙と植物性の煙、どっち吸いたいの?」  そんな二択聞いたこともない。さらにはそれ以前の問題だと思う。 「――おれが禁煙中なの、知ってるくせに」  かの女は長いままの煙草を消して「そりゃまあ、いいんだけどね」といい、「でさ、あんたのそれって、有病率? 罹患率? 何人にひとりがなってるの、その、HSP」と脱線もしないで本筋に戻った。快挙。今日この店に来て初めてかもしれない。ねえママぼく日本語で会話ができたよ。 「ざっと五人にひとり」「そんなに? 二〇パーじゃん」驚いた表情で煙に燻されつつ、かの女はホルモンを焼く。  ホルモン、ホルモン、ホルモン。こんな、ぐにゅぐにゅで薄気味悪い代物をなによりも焼きたがる。とりあえずタン塩? いいえホルモン。つぎはハラミやカルビ? いいえホルモン。ホルモンがトップ。ドリンクは生中しか眼中にないし、日の丸の煙草のパッケージも先ほどから蓋を開け閉めしていで気忙しい。  お互いのためにならない焼肉なのかもしれないけど、だからって解散するのも、癪だ。 「生まれもった性質らしいよ。繊細、というか、要するに不安や危険予知能力が強い個体ほど野生時代のサバイバルでは生き延びやすかった。よって生殖のうえでも数に優り、だから今でも多くのひとにその遺伝子が残ってる、っていうことなんだってさ」  じゅうじゅうと白煙を上げるホルモンを、かの女はステンレスの箸でひっくり返したりつついたりしている。煙すぎる。 「いったん火、落とそう」テーブルのガスを操作しようとすると、「ちょっと、なにしとるん。せっかくのアロマが消えちゃうじゃん」とかの女は制止する。だめだ、このひと本気だ。  はあ。アロマ、ね。牛脂もらってアロマキャンドルでも作りなよ。 「イマドキだけどさ」とホルモンを二つか三つほどまとめて咀嚼しながらかの女はいう。 「カップルで焼肉してるやつらはデキてる、ってのをやってみたいのよね」といってジョッキをあおる。「まあ、その前にビール姫のあたしは潰れそうだけどさ」  まず前提条件の『カップル』ってのに該当しないんだけどね。しかしそうは口に出さず、代わりにこんがり焼けた小さめのホルモンで口腔を埋める。酔っ払いのいうことだ、アクエリの一本でも持たせてそこらに放っておけばいい。こげたホルモンはカリカリでこれはこれでおいしいかもしれない。ただし苦いのには目をつむる必要がある。 「それって、その」とさして興味もないが一応訊いてみる。 「なんだよ察しが悪いな、よくある質問とその答え」 「FAQ(ファッキュー)かよ。このひと、こんなに酒癖悪かったっけ、とおれは軽く後悔してるけどね」 「ひでえな」かの女は口いっぱいのホルモンの隙間を縫って悪態をつく。 「どっちがだよ」 「乙女ゴコロってのを知らねえのかよ」  ホルモンを噛みながら泣くと説得力に欠けるなと思いつつ、「出た、泣き上戸」と囃す。  かの女はむくれ面をして「あのね、あたしもいい歳だけどガチで涙流せるようなウソ泣きはできないわけ」といい、背もたれにだん、と背中をぶつけ、ついでに後頭部も衝立に叩きつける。後ろの客が咳払いをする。 「動物性アロマが目にしみたんじゃない?」 「いちいちひとの心理を論破しないでくれる? あんた、HSPならわかるんじゃないの、その、そういう――心の機微とか」  話を長引かせても理解が深くなりそうになかったので、座りなおしてやや身を乗り出していった。 「おれはその、どうこうしたいからHSPのこといったんじゃないんよ。単純にわかってほしかった。承認欲求。だから」 「だから、あたしはあんたのお母さんじゃないんだってば。わかってほしいんなら、わかろうとする。承認だってする。でもね、それはオナニーだっていいたいのよ、あたしは。まあもちろん甘えだ、とまではいわないけどさ。そこまで残酷じゃない」そこまでいって紙ナプキンで目元を押さえる。 「でも、HSPじゃない、残りの五分の四のうちの一だって、他の五分の四に対して期待もするし、好きになったりもする。そこらへん機会均等なわけ。たしかに配慮するところは配慮するよ(紙ナプキンで洟をかむ)。HSPだからとか、五分の四だからとか、必要以上に線引きはしたくないの。あたし、もし好きなひとができたとしても、そこらへんバリアフリーだもん。だから割合、っていうか、配当金とか生きやすさとか、イーブンじゃないにしても、ギブアンドテイクにしよう、ってわけ。あたしがしたいのはオナニーじゃなくてセックス。つまりそれだけのこと!」  かの女は完全に炭と化したホルモンを脇にどけ、新たに新鮮なホルモンを泣きながら網に乗せる。すごい煙の量だ。くすぶりすぎておれまで涙が出てくる。「ああ、いや、これはホルモンに泣かされた涙であって」 「だれもなにもいってねえよ」と、かの女は呼び出しボタンを押しながらいう。「ねえ! 網! あとビール!」 「なあ、網来たらちょっとホルモンは置いといてハラミでも焼かん?」 「いいよ。あたしはホルモンと生中以外、口にしないけどな。あとラッキーストライク」  強情だ。強情すぎて不可思議でもある。   網が来たのでハラミも注文する。新しい網が熱するのを待たずに、かの女はさっそくテーブルの脇に在庫してあったホルモンを焼きにかかる。白煙が上る。こんな網じゃ、とろふわのハラミも焼けやしない。動物性の煙にまみれながら、しかしこれも悪くはないかもな、と自棄気味に思った。――植物性の煙、か。 「なあ、煙草くれん?」
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