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一 朝
「おはようございます」
「おはよう、セリナ」
アンを起こしにきたセリナは優しくカーテンを開けた。今朝も清々しい空気が部屋に入ってきた。体を起こしたアンは首を捻った。
「ああ……よく眠れたわ」
「よかったです」
……お顔の色もいいし、お肌の艶もいいわ。
病弱だったアンはこの辺境に来るとなぜか元気である。質素な屋敷に関わらず彼女は機嫌良く立ち上がる。セリナは着替えを手伝い始めた。
アンは王女であるが、この屋敷にいる時は動きやすい服装を好んで着ている。今朝もお気に入りの服を選んだアンの長い髪をセリナが優しくブラッシングした。
「セリナ、香油をつけてくれたのね」
「はい。あの、嫌でしたか?」
「ううん。その逆よ。気持ちがいいわ」
この地方の特産の樹木から取れる香油がアンのお気に入りだ。
「王宮では隣国から取り寄せた香油を使っているのだけど、私はこっちが好きなの。それにセリナのようになりたいから」
「私ですか?」
「ええ」
アンは眩しそうにセリナを見つめた。
……こんなに綺麗な髪なんて……お姉様や妹に見せられないわ。
子供の頃から香油を使用しているセリナの髪は美しい。アンはセリナのようになりたいと思っていた。それ以外もセリナは肌が綺麗である。
「アン様?」
「うふふ、ごめんなさい、つい、見てしまって。あ、いつものクリームをお願いね」
「はい。塗りますよ」
セリナはいつものようにアンの顔にクリームを塗った。これはこの家に伝わる日焼け止めのクリームである。セリナは当たり前のように塗っており、バロンも外仕事の時は塗っていた。アンはこの兄妹が恐ろしく肌が綺麗な理由の一つがこれだと思っていた。
「……はい、できました」
「ありがとう」
支度ができたアンをセリナは食卓に連れてきた。しかし、彼がいない。アンはメイドに尋ねた。
「お兄様はまだ寝ているの?」
「はい……今、バロン様が起こしに行っています」
「はあ……ごめんね。セリナ、様子を見に行ってくれる?」
「はい」
セリナはため息まじりのアンを残し、例の王子の部屋へ向かった。
◇◇◇
「お兄様、ラルト様は?」
王子の部屋の前にいたラルトは振り返る。
「いつもの通りで起きないよ」
「でも、今日は起きたいって昨日、言っていたわよね」
昨日、ラルトは用事があるので何がなんでも起こしてくれとバロンとセリナに語っていた。バロンはお望み通りに起こしたが、眠いラルトは布団をかぶって抵抗しているという。
「アン様は起きて待っているのに……お兄様。もう一度、起こしてみましょう」
「わかった。王子、失礼します」
バロンは勇ましくラルトが寝ている部屋に入った。彼は布団にくるまっている。セリナはバロンと一緒に彼を囲む。そして二人は視線を合図にさっと布団をめくった。
「起きてください」
「王子、お時間ですよ」
セリナとバロンは声をかけた。しかし、ラルトはまだ寝ようとしている。これを見たセリナは水差しを手にした。
「セリナ、それは?」
「お兄様。ラルト様は、何がなんでも起こせって言っていたじゃない」
「それはそうだが……もしかして、水をかけようとしているのか」
「うん。私もこんなことしたくないけれど、仕方がないもの」
二人の会話を聞いていたラルトはビクッと動いた。
「……お前達……俺はこれでも王族なんだぞ」
彼が目覚めたことを確認した二人は朝の挨拶をした。
「王子すみません、アン様がお待ちなので自分は様子を見てきます。セリナ、悪いが王子の支度を頼む」
「はい! さあ、ラルト様、お目目を開けましょうね」
「俺もそうしたいのだが……瞼が、どうしても言う事を聞かないのだ」
「まあ? 困った瞼ですね」
バロンが扉を閉めた音で、ラルトはセリナに手を伸ばす。小柄なセリナは手を引き彼を起こした。
「はい、あ? 目も開きましたね! お上手です。さあ、今度はお靴ですよ……はい、右から、……いいですよ、そのままです」
「……ふわあ……うう……」
なすがままであくびをしている彼をセリナは着替えさせた。ラルトもこの屋敷にいる時は軽装である。今朝はすぐに朝食を食べさせるためにセリナはラルトを食卓に連れてきた。そしてアンとラルトだけのいつもの朝食になった。
「お兄様。今日のご予定は?」
「……午前中に、裁判があるんだ」
アンは王女として視察の立場で来ているためこの地方の出来事や、農産物の生育状況などをセリナの父と一緒に調べている。
そしてラルトは、この地方を統治することになったため、地方政治の議会長になっている。他にも法を犯した者や訴訟などの簡易裁判も行っている。だが在職の役人がいるため実際は監督する立場にあった。
「俺は忙しいんだ……あ、そうだ、今朝はセリナを連れて行くぞ」
「またですか?」
異母妹の何気ない言葉にラルトは頬を染める。
「うるさい! あいつの勉強になるのだからいいだろう」
こうして食事を終えたラルトは、馬車に乗り裁判所へ向かう。なぜかセリナも一緒である。
……どうして私がカバンを持つ羽目になるのでしょうか。
ラルトにはお付きの文官がいるのが、彼はいつも馬に乗って別行動である。セリナは向かい側に座るラルトにそっと尋ねた。
「あの……そろそろ私が行く理由を」
「ふふふ……これからの裁判は『いただき女リリー』の裁判だぞ」
「え? あの詐欺女の事件ですか」
ラルトは嬉しそうに頷く。この『いただき女リリー』事件とは、結婚詐欺の事件である。この地方にやってきたリリーという名の女は、酒場で身の上の不幸を語り、老齢の独身男性から金を巻き上げていた。ラルトはこの裁判に参加すると語る。
「お前も端の席で傍聴するがいい。その女も来るしな」
「そうでしたか……でも、私が傍聴して良いのですか」
恋話が好きなセリナは、以前からこの話を非常に気にしていた。謙遜していたが胸はワクワクしていた。
……リリーってどんな女なんだろう。うう……気になる!
楽しみな気持ちを押し込めているセリナにラルトは目を細める。
……やはり、食いついてきたな。
ラルトはセリナがこの手の話が大好物だということを世界で一番悟っていた。男爵の娘のセリナは他者の話をすることを彼女の父はよく思っていない。
だがラルトは恋話をしている時のセリナがキラキラして可愛いと思っていた。そんなセリナのためラルトは裁判の仕事引き受け、連れてきたのだった。
「ああ。お前はアンの代わりだ。代わりに聞いて教えてあげてくれ」
「なるほど」
……確かにアン様には刺激が強いですものね。
アンは病弱であるため際どい話は心臓に悪い。だがアンはこの地方の出来事を報告しないといけない。これを手伝いたいセリナは好奇心を抑え真顔を向けた。
「かしこまりました。私も、リリーに知り合いが騙されそうになっていたんです。アン様のためにしっかり裁判を見届けます」
「そんなに力を入れるな……お。着いたぞ」
こうして二人はいただき女リリーの裁判に参加した。
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