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一 麦刈り
「王都から書状です」
「はあ……次から次へとよくもこんなに仕事があるな」
「それがラルト様のお仕事ですから」
アンメルトはそう厳しく告げた。ラルトは口を尖らせる。
……こいつが来るなんて。誤算だった。
王都からやっていたアンメルトは騎士の中でも有能な男である。ラルトは護衛の騎士が来ると聞いていたが、彼とは思っていなかった。アンメルトは姉の婚約者のはずだったからである。
「それよりも。まだお前がここに来た理由を聞いていないぞ。姉上との婚約はどうしたのだ」
「……破棄になりました」
「え? 」
アンメルトは視線を落とした。ラルトはそんなはずがないと立ち上がる。
「どういうことだ? 姉上がお前がいいと言って、それで決まったのではないか」
「シャニー王女様には、お好きな人ができたのです……」
アンメルトは虚しげに語る。それは王の主宰の夜会の出来事であった。
「その時、シャニー王女様は……東公爵の後継者と、愛し合っていると……みんなの前で、そう宣言されて」
「なんということだ。お前と姉上の婚約は父上の命令だったはずだ。それで、父上は?」
「王女様の想いに添いたい、と仰られまして……それで、自分も王都にいられず」
「そうであったか」
……アンメルトはいつも姉上の横に立っていたのに。
ラルトは俯くアンメルトが気の毒に思った。
「……そうか。まあ、元気を出せ。女は姉上だけではない」
「は、はい」
「それに……ここは田舎だ。辺境で不便であるが、まあ、気を楽にしろ」
この時、ドアがノックされた。アンメルトが開けると、セリナがお茶を運んできたところだった。
「お茶をお持ちしました……」
「あ、ああ、どうぞ」
セリナはやけに暗く落ち込んでいた。ラルトがじっと見ているが、セリナは悲しげにお茶を置き、静々と退室した。
「どうしたんだ? やけに元気がないが」
「……今の話を聞いていたのかもしれませんね」
黒髪のアンメルトは呆れたようにため息をついた。
「セリナ様は、こういう噂話がお好きのようですので」
「そんな言い方は」
「王子。それよりも仕事をお願いします」
「わ、わかったよ」
アンメルトは威圧的にラルトに仕事を進めさせる。ラルトはセリナが心配であったが、今は仕事をするしかなかった。
そんな中、セリナはアンの元にお茶を淹れにやってきた。
「どうぞ」
「あら? 元気がないのね」
「そんなこと……はあ」
……秋の収穫のせいで筋肉痛だわ。
この地は秋の収穫で忙しかった。男爵家では農作業中に怪我がないように見張りを兼ねて、早起きをして麦刈りを手伝っていた。この時間、バロンは馬に乗り現場を監督しているが、疲れてしまったセリナは先に屋敷に帰っていた。本を読んでいたアンはセリナを椅子に座らせた。
「大丈夫? 去年もヘトヘトだったわよね」
「はい……でも、これを乗り超えないと」
「私、王都にいた時。小麦の収穫がこんなに大変だとは思っていなかったわ」
王女であるアンは、セリナの手を優しく握った。
「食べることは簡単ね、でも『一から作る』ということは本当に大変なのよね。私、ここでの暮らしでそれを痛感したわ」
「嬉しいです……アン様にそう言って頂けて」
「セリナ。少し休みなさい、あなたは働きすぎよ」
だがセリナはまだ仕事があると、よろよろで話した。
「今日の小麦の量を……記録しないと。農家の皆さんは収穫で手一杯だし、それに王都への品を確認しないと」
セリナの体調を気遣うアンは眉を顰めた。
「やっぱり私も手伝うわよ」
「いけません! アン様はここで健やかにしていただかないと」
病弱のアンに仕事など頼めないと男爵家は決めていた。そんなセリナは気合を入れ直し、屋敷の庶務室で計算をしていた。
夕食時。アンと食事をしていたラルトは、アンに尋ねた。
「それにしても、小麦の収穫はそんなに大変なのか」
「そうですね。総出で行う作業ですので」
「俺はまだよくわからないのだが、麦を刈ればいいだろう」
「お兄様、最近、お天気が良い日が続いているのをご存知ですわね」
アンはこの数日が収穫の好機だと教えた。
「乾燥していますし、実っていますしね……それに、害獣が来るせいです」
アンは害獣が狙っているので早く麦刈を終えたいと話す。野菜を食べていたラルトは首を傾げた。
「害獣か……そんなものは俺の一太刀で一気に」
「お兄様。それは無理です。鳥も来るんですよ」
アンは麦刈りの作業は本当に大変だとため息をついた。
「鎌を使うので怪我をする者もいますし、セリナもバロンも男爵家として作業を見守っているのです。私も健康だったら、手伝いたいくらいですわ」
「……そうか」
部屋のドア付近で護衛をしていたアンメルトと一瞬目があったラルトは、食事を済ませた。
◇
翌朝、ラルトは麦刈りにやってきた。
「ラルト様、なぜここに?」
地味なマントを羽織り隠密でやってきたラルトはセリナに微笑む。
「俺はここの統治者だぞ。見に来るのは当然だ」
「こ、こっちにきてください」
セリナは、ラルトとアンメルトを刈穂の山の影に誘う。
「ここにいては危険です」
「害獣だろう。大丈夫だ、アンメルトも横にいるし」
「違うんです……見てください、あの様子を」
セリナの視線の先では、農作業の村人は殺気だっているのが見えた。セリナは説明した。
「頼りにしていた男の人達が、お腹を壊したせいで、来れなくなってしまって」
「作業員が足りないのか」
「それでイライラしているのですね」
ラルトとアンメルトの言葉にセリナは頷く。
「そうなのです。でも明日は雨が降りそうなので今日中に作業を終えたいと思って、みんな焦っているのです」
こんな中、二人が呑気に視察していたら、一緒に手伝え! と言われるとセリナは話した。
「これは脅しじゃありません。とにかく逃げてください。今すぐ」
「ラルト様、では、帰りましょう」
「いや、俺は残る」
ラルトはアンメルトの腕を払った。
「俺もやる。麦を刈ればいいんだろう」
「ラルト様、それはちょっと無理では」
「うるさい! セリナ。俺もやる」
するとそばにいた農民がラルトを発見した。
「おい、あんた。そこにいるんなら手伝ってくれ。これを運びたいんだ」
「いいぞ。だが、俺は非力なので期待するなよ?」
「ラルト様……」
余裕のラルトはマントを脱ぎ捨て男性に混ざったが、すぐに諦め子供達と一緒に刈った麦を運び出した。アンメルトは眼を疑う。
「王子がこんなことをするなんて」
「すみません! 私もやらないといけないので。これで」
セリナも作業に加わった。アンメルトは総出で作業する農業のあり方に感銘を受けた。
……自分も騎士団にいたが……ここまでの結束はなかった。
明日は雨という極限状況。頼りになる若い衆は少ない。老人と女、子供、そして王族のラルトが麦を運ぶ作業に彼は衝撃を受けていた。そんな時、声がした。
「出たぞ!」
「みんな逃げろ」
ここでアンメルトは馬に乗り、みんながあっちと指す現場へ向かう。そこではバロンが猪に襲われていた。アンメルトは剣を抜き、猪を滅した。
「大丈夫か」
「く! 足をやられましたが……これくらい」
「バロン! ああ、こんなに血が出て」
「アン様?」
心配で駆けつけたアンは、バロンの足を見てハンカチで手当てをした。アンメルトはバロンにアンを連れて屋敷に帰るように指示をした。
「でも、自分は現場を見ないと……」
「私が代わりにやる。君はアン様を頼む」
「そうよ。バロン、私と一緒に屋敷に帰りましょう」
バロンはアンと一緒に馬に乗り屋敷へ戻った。監督はアンメルトが務めた。やがて午後には腹痛だった男性が数人、やってきたので、この日で作業は終えることができた。
「王子。お疲れ様でございます」
「おう! みろ、これは俺が運んだ山なんだぞ」
そんなラルトの周りには子供達が集まり、すっかり人気者になっていた。アンメルトは眼を細め、ラルトを馬に乗せた。
「待て、それよりもあいつはどこだ」
「あいつ、とはセリナ様ですか? そういえば、どこにいるのでしょうね」
夕暮れの作業は終了したが、なぜかセリナの姿がなかった。屋敷に戻っているのだろうと思った二人は帰宅した。
この夜、バロンの話ではセリナは大丈夫だというが、姿を見せなかった。そして翌日も姿を見せないのでラルトはバロンに命じた。
「セリナを出せ! 俺に隠し事は許せん!」
「か、隠しているわけでは」
「ではセリナを出せ! おやつを食べてやらないぞ」
「……それは困ります? 実はですね」
バロンの話を聞いたラルトはセリナの部屋にやってきた。セリナはベッドに寝ていた。
「おい。しっかりしろ」
「ラルト様……すみません、心配をかけてしまって」
「そんなに筋肉痛が酷いのか」
ラルトとアンメルトに彼女は答えた。
「そうですね……夢中だったので、やりすぎたみたいです」
「でも、お前は俺と一緒にいたじゃないか」
セリナはラルトのように軽作業をしていたはずである。それなのにこんな疲労はおかしいとラルトは思った。
「……あの後、ちょっと余計な仕事をしてしまって……自分のせいです」
気にしないで欲しいとセリナは苦しそうに語る。ラルトとアンメルトは申し訳ない気持ちで部屋を後にした。
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